大魔法使いの娘
第13話

隠れられない

リディアは、扉の前で夜を越した。

 鍵は外側にしかない。中からは開かない。だから、開くのを待つしかなかった。誰かが石を検分しに来る。その刻限に、扉は一度だけ開く。

 刻限の鐘は、鳴らない。にごった鐘は、もう撞かれなくなった。朝が合図をなくしてから、ずいぶん経つ。いつ開くのかは、廊下の足音で計るしかなかった。

 明け方近く、その足音が来た。

 ひとつ。ゆっくり。検めの長衣だ。リディアは扉のすぐ横の壁に背をつけた。息を浅くする。気配を薄くする。

 これは、得意だった。生まれてから、ずっと。

 鍵が鳴った。掛け金が外れる。扉が内へ開いた。

 長衣が入ってくる。透きとおった杖を、寝台のほうへ向けた。母がそこで目を閉じている。長衣は、寝ているのが娘だと思ったのだろう。確かめもしなかった。

 リディアは、開いた扉の、その隙を抜けた。

 長衣の背中の、すぐ後ろを。触れそうな近さで。けれど長衣は振り返らない。リディアの足音は薄い。気配も薄い。すぐ後ろにいても、いないのと同じだった。

 廊下に出た。

 うまく抜けた、と思った。薄いことが、はじめて役に立った気がした。いつもは、見つけてもらえないだけの薄さ。それが今は、見つからずに済む薄さになっていた。

 行き先は決めていた。渡り廊下の、向こう。教会側。古い字を読める人のところへ。奪われた名前を、古い名簿から探し出すために。

 待っていたら、次に消えるのは自分のまわりの誰かだ。リディアは襟もとの紙を、手のひらで押さえた。石の、すぐ上。父のページを破り取った、あの紙。

 ふりかえると、開いたままの扉の奥に、母の寝息が、まだあった。起こさなかった。起こせば、止められる。ひとりで行くのは、はじめてだった。

 毎日ちゃんと探すこと。父の手帳の一行が、背中のあたりで、小さく鳴った気がした。

 渡り廊下の、手前。階段の踊り場で、灯りが来た。

 見回りの衛兵だった。ふたり。槍の石突きが、石の床を鳴らしている。

 リディアは柱の陰に入った。薄さを深くする。壁の石に溶けるように。

 衛兵は、すぐ近くを通った。ひとりがあくびをした。もうひとりが、何か低く言って笑った。ふたりとも、リディアを見なかった。見るものがそこにいるとは、思っていない。

 足音が遠ざかる。

 リディアは息をついた。

 そのときだった。

 見られている、と思った。

 衛兵ではない。衛兵はもう、いない。それなのに、どこかからまっすぐに、見られていた。柱の陰の、薄くなったリディアを。隠れたはずのリディアを。

 薄さの、奥まで。

 リディアは柱から離れた。足を速める。渡り廊下のほうへ。

 見られている感じは、ついてきた。いや、ついてくるのではなかった。

 先回りして、いた。

 リディアが行こうとするほうに、先に。リディアが次にどこへ行くかを、リディア自身より先に知っているように。

 渡り廊下の入口に、それは立っていた。

 扉は閉まっていた。鍵もかかっていた。リディアはそれを知っていた。さっき、長衣が閉めていったから。

 それなのに、扉のこちら側に立っていた。開けた様子はない。掛け金は外れていない。閉まったままの扉の、内側に、それはいた。通ってきたのではなかった。壁が、はじめからなかったみたいに。

 黒い。人の形に近いけれど、輪郭がところどころ、ほどけている。そして、赤い目。

 リディアは、その赤い目を知っていた。学校の、夜の窓の外。家の、結界の前。関所を越えた夜営の闇。においで追ってくる、と母が言った、あれだ。爪が体に届く距離まで来て、鎖だけ切って退いていった、あれ。

 あのとき、それはリディアを連れていかなかった。テオが、変だと言った。連れ去るのが用事ではなかったのかもしれない、と。

 その用事が、いま、すぐ目の前に立っている。

 「壁は、守るためにあると、みなが言う」それは閉まった扉に手を触れた。触れただけで、扉の表面がうっすらと、霜のように白んだ。「ちがう。壁は、越えるためにある。境とは、そういうものだ」

 リディアは、来た廊下へ走った。教会とは、逆の方へ。とにかく、この赤い目から離れたかった。

 角を曲がった。その角の向こうに、赤い目があった。先に、いた。

 別の通路へ折れた。そこにも、いた。けれど、ただ立っているのではなかった。リディアが折れるたび、それは、戻る道をふさぐ位置に現れた。右へ行けば右がふさがる。左へ逃げれば左に立つ。

 追っているのではない。追い込んでいる。

 一度、横の扉に手をかけた。鍵は、かかっていなかった。それなのに、押しても引いても、開かない。手のひらに、あの霜のつめたさが伝わった。赤い目が、さきにそこを“閉じて”いた。開いている扉だけが、奥へ、奥へと続いていた。誰かに、そう敷かれた道のように。

 気づいたときには、渡り廊下から、ずいぶん遠かった。教会へ続く道は、背中の、ずっと後ろ。リディアは、北翼のいちばん奥の、窓のない短い廊下へ、押し込まれていた。

 行き止まりだった。

 隠れられない。

 リディアははじめて、その言葉を知った。薄いことは、ずっとリディアの、最後の隠れ場所だった。見つけてもらえない、そのかわりに、見つからずにいられた。その隠れ場所が、この相手の前では、なかった。隠れるどころか、隠れようとする足の向きまで、先に読まれて、いきたい場所から、引きはがされていた。

 走っても、隠れても、同じだった。なら、と思った。

 リディアは、薄くなるのを、やめた。背を伸ばす。隠れることに使っていた力を、ぜんぶ手放した。隠れられないなら、隠れる意味は、ない。

 そして、声を張った。隠れるためでなく。見つけてもらうために。

 「お母さん! テオ!」

 自分の声がこんなに大きく出たのは、いつ以来か、わからなかった。

 「北翼の、奥! いちばん奥! わたし、ここにいる!」

 遠くで、光が生まれた。廊下の、ずっと向こう。白い、刃の形の光。母だ。眠っていたはずの母が、もう走っている。リディアの声を、聞きつけて。

 間に合う。そう思った。あの夜営でも、広間でも、母の声は、いつも届いた。

 赤い目が、リディアと、その光のあいだへ、進んだ。

 「境は」それは言った。「越えるためにある。だが、引くこともできる。お前と、あれの、あいだに」

 それが、何もない廊下の途中に、手を、横へ引いた。線を、引くように。

 母の光が、その線の手前で、止まった。

 壁では、なかった。扉でもない。何もない。それなのに、母の光は、そこから先へ、来なかった。

 「リディア!」

 母の声がした。けれど、遠かった。すぐそこにいるのに、水の向こうから呼んでいるように。

 「お母さん!」リディアは叫び返した。

 「リディア、聞こえ……」

 母の声が、一枚、遠くなった。

 「どこ……リディ……」

 また一枚。

 声が、薄い紙を一枚ずつあいだに挟まれていくように、遠ざかる。母は、まだ走っている。光も、まだ届こうとしている。けれど、引かれた線の手前で、母の姿が、ぼやけていく。世界を割ってきた白暁の魔女が、何もない廊下の途中で、見えない壁を、両手で押していた。越えられずに。

 いちばん怖かったのは、それだった。

 母の光の壁が破られたことではない。母が、リディアのところへ、来られないことだった。呼べば届くと、信じていた声が、はじめて、途中で止まった。

 リディアは、もう一度、叫んだ。ありったけの声で。あの夜、母とテオが、名前を呼んで、引き止めてくれた。声には、そういう力があるはずだった。だから、声でなら、母を、こちらへ手繰り寄せられると思った。けれど、叫びは、線の手前でほどけた。届けるための声が、はじめて、宙で行き場をなくした。

 やがて、母の声は、聞こえなくなった。

 リディアは、赤い目と、ふたりきりになった。

 「これで、わかったか」と、それは言った。「壁は、お前を守らない。声も、お前を、助けに来ない。お前は、どこにいても、ひとりだ」

 赤い目が、リディアの襟もとへ、移った。

 「その石を、外せ」それは言った。「外せば、隠れる必要も、なくなる。お前は、隠れるために、それをつけている。隠れることが、もう、できないのに」

 外したく、なった。一瞬。隠れることが、何の役にも立たないなら。声も、届かないなら。

 いっそ。

 外せば、隠れなくて、すむ。見つかることに、おびえなくて、すむ。声が届かないことに、絶望しなくて、すむ。この、ひとりきりが、終わる。

 リディアの指が、襟もとへ動いた。石の、冷たさに触れた。

 そこで、止まった。

 この相手は、ずっと、これがほしかった。学校の夜から。家の結界から。夜営で、鎖だけ切って退いたときから。連れ去ることではなく、これを外させることが、用事だった。

 ずっと待っていた相手が、外せ、と言っている。

 なら、外さない。

 「いやだ」リディアは言った。声は、震えていた。それでも、言った。「あなたが、ほしがるなら。なおさら」

 指を、石から、離した。握りもしない。ただ、離した。外さない、と決めるのに、握りしめる必要は、もう、なかった。

 赤い目が、すっと、細くなった。今度は、笑っていなかった。

 「いずれ、外す」それは言った。「お前が、自分から。誰も、来なくなったとき」

 そして、退いた。

 来たときと、おなじだった。走りも、逃げもしない。ただ一歩、後ろへ。窓のない廊下の、奥の闇へ。引かれていた線が、その背中といっしょに、ほどけた。

 とたんに、母の声が、堰を切って、流れ込んできた。

 「リディア!」

 母が、もう、すぐそこにいた。線が消えた廊下を、つんのめるように、走ってきた。息が、あがっていた。白暁の魔女の息が。

 「ここよ」リディアは言った。「わたし、ここ」

 母は、リディアを、強く抱いた。腕が、震えていた。

 しばらく、誰も動かなかった。

 母は、リディアの肩から、なかなか手を離さなかった。「届かなかった」母は、低く言った。「あなたの声が、聞こえているのに。あと、五歩のところで。わたしは――」

 言葉が、続かなかった。母が、自分の力で、できないことに、ぶつかったのを、リディアは、はじめて見た。

 テオの足音が、廊下の向こうから、来た。炭の紙きれを、握っている。走ってきたらしく、息が、乱れていた。

 「リディア」テオは、紙を、見せた。いつもの平らな声に、引っかかりがあった。「いま、奪われた。北の、見張りが、ひとり。さっき、ほんの、何呼吸かの、あいだに」

 「奪われた?」

 「名前。戻らないやつだ」テオは、紙の、新しい印を、指した。「あいつが、お母さんを、締め出してた。あのあいだ。誰も、誰の名前も、呼べなかった。――その隙に」

 ノクスは、喰わない。テオの記録では、赤い目が来ても、名前は奪われなかった。けれど、今夜は、奪われた。

 赤い目が、声を、せき止めているあいだに。呼ぶ者が、いなくなった、その隙に。

 リディアは、わかった気がした。隔てるものと、喰うものは、別なのに、つながっている。ひとつが、人を、ひとりきりにする。もうひとつが、ひとりになった名前を、舐めていく。

 「テオ」リディアは聞いた。「その人の名前は」

 テオは、首を、横に振った。

 もう、ない。

 誰も、締め出されているあいだに、その名を、呼ばなかったから。

 北の見張りの、その人を、リディアは知らない。顔も、声も。それでも、ついさっきまで、名前のあった人だった。リディアが赤い目とにらみ合っていた、その同じ夜の、すぐ近くで。守れたかもしれない、とは思わなかった。ただ、間に合わなかった、とだけ思った。

 明け方の光が、窓のない廊下の、入口まで、届いていた。

 リディアは、その光のほうへ、歩いた。教会側。

 隠れて行くつもりだった。薄さを使って。誰にも見られずに。でも、薄さは、もう隠してくれない。声も、いつも届くとは、かぎらない。

 壁は、リディアを守らなかった。母の声は、五歩のところで、止まった。そして、誰かの名前が、その五歩のあいだに、奪われた。

 守ってくれるはずのものが、何ひとつ、間に合わなかった。

 なら、間に合わせる側に、回るしか、ない。

 「お母さん」リディアは言った。「わたし、大司教さまのところへ行く。許可を待たない。あの人なら、古い字が、読める。奪われた名前を、書いてある名簿が、あるかもしれない」

 母は、リディアを見た。止めるかと思った。けれど母は、止めなかった。

 「ひとりでは、行かせない」母は言った。声に、まだ、さっきの震えが残っていた。「壁が守らないなら、声が止められるなら、わたしは、あなたの、すぐ隣を歩く。線を引かれても、手の、届くところを」

 テオが、窓のない廊下の奥を、見た。赤い目の、消えた闇を。それから、入口の扉に残った、白い霜を、指でこすった。冷たい粉が、指についた。

 「これ、覚えとく」テオは言った。「次に、線を引かれる前に。どこに、立てばいいか」

 リディアは、襟もとの石を、もう一度、握った。冷たいまま、こたえなかった。いつもどおりに。

 誰も、来なくなったとき。外せ、と、あれは言った。お前が、自分から、と。

 その言葉が、石の冷たさと、おなじ場所に残っていた。指の、すぐ下に。

 リディアは、手を離した。今は、外さない。

 そして、母の手の届くところを、歩きだした。隠れずに。鳴らない鐘の、真下を。奪われた名前を、ひとつ、取り戻しに。