大魔法使いの娘
第14話

読める人

渡り廊下は、思っていたより短かった。

 いつもは遠い道だった。許可を待ち、紙が下りるのを待ち、衛兵の背中の向こうにあった。隠れて行くつもりだった道。

 いまは、隠れずに歩いていた。

 リディアの左に、母がいた。前ではなく、横に。リディアの歩幅に合わせて、母は歩いた。誰かが見ていれば、母娘が朝の散歩をしているように見えたかもしれない。

 誰も、見ていなかった。

 渡り廊下を抜けると、空気が変わった。冷たい石の匂い。蜜蝋。古い木の床。ここでは、誰も人数を数えなかった。検めの杖も、刻限の表もない。鐘楼の根もとへ近づくほど、足の裏が、しんと静かになった。

「ここから先は」と、テオが言った。後ろから、ついてきていた。「僕、お役に立てそうだ」

「字、読めないでしょ」

「うん。でも、数えられる」テオは、炭の紙きれを、上着の内に押し込んだ。「古い帳面が、どこにあるか。誰が、いつ消えたか。読める人が読むあいだ、僕は数える」

 灰色の尼が、廊下の奥から来た。前に、街でリディアを名前で呼んだ人。

「お待ちしておりました」尼は言った。「大司教さまが。――ただ、長くは」

「長くは?」

「総長府から、使いが来ています」尼は、声を落とした。「移送の支度を、いつ始めるか。それを、決める使いです。あなたが教会にいるあいだに、決まるかもしれない」

 リディアは、母を見た。母は、何も言わなかった。ただ、足を少しだけ速めた。

「帳面は、どこ」テオが、尼に聞いた。

「古い記録は、奥の棚に」尼は言った。「こちらへ。読むのは、私が」

 テオは、リディアを見た。それから、尼について、廊下の奥へ折れていった。リディアと母は、大司教の部屋へ向かった。テオには、鐘のことは、まだ話していない。今日も、言わずにおくつもりだった。

 部屋は、前と同じだった。

 書きもの机。すりきれた長椅子。背の割れた本。窓辺の、小さな円卓。

 セラフィナは、円卓のそばに座っていた。白い髪。丸まった背中。袖口の繕い跡。リディアが入ると、顔を上げて、いちばんに言った。

「リディア」

 名前を、先に。石ではなく。

「来ると、思っていましたよ。許可は」

「待ちませんでした」

「そう」セラフィナは、笑った。叱る顔ではなかった。「あなたのお母さんも、昔、そうだった。待たない人」

 母の視線が、円卓に落ちた。

 茶を、セラフィナは手ずから注いだ。注ぎ口が、かたかたと鳴った。湯気が、円卓の上に立った。

 リディアは、座らなかった。襟もとから、紙を出した。父のページを破り取った、あの一枚。古い字で書かれた面を、上にした。

「これを」リディアは言った。「読める人が、いると聞きました」

 セラフィナは、紙を受け取らなかった。すぐには。リディアの顔を、しばらく見ていた。

「読めば」と、ゆっくり言った。「あなたは、戻れなくなるかもしれない。知らなかったところへは」

「もう、戻れません」リディアは言った。「わたしは、隠れることが、できなくなりました。昨日の夜。だから、知るほうへ、行きます」

 セラフィナは、うなずいた。それから、紙を、両手で受け取った。

 古い字は、蔓草のようだった。文字と文字が、つるで結ばれて、どこが切れ目か、リディアには分からなかった。前に自分で開いたときは、つるの隙間から、いくつかの語を拾うだけだった。コレーの環。境界に立つ者を。器。薄れる。世から。とびとびに。

 セラフィナの指が、つるをほどいていった。

「コレーの環」と、まず読んだ。「これは、あなたも読めたわね」

「はい」

「その先」セラフィナの指が、進んだ。「境界に立つ者を……世から……薄くして……」指が、止まった。次の語へ、また動いた。「隠す、器」

 つるが、ほどけて、一本の線になった。

 境界に立つ者を、世から薄くして、隠す器。

 リディアは、それを、すでに知っていた。体で。班分けで余るとき。配られる紙が一枚足りないとき。名前が備考欄に回されるとき。けれど、知っているのと、書いてあるのを読まれるのとは、ちがった。書いてあった。ずっと前から。リディアが生まれる前から。リディアを、薄くするために。

 不思議と、悲しくはなかった。怖くも。ただ、足の裏が、すこし、ふわついた。立っている場所が、自分で思っていたよりも、薄い紙の上だったと、知らされたみたいに。

「お守りだと」リディアは言った。声が、少し、揺れた。「お母さんは、お守りだと」

「お守りでも、あるのよ」セラフィナは、紙から目を上げなかった。「守ることと、隠すことを、この器は、分けない。だから、たちが悪い」

 母は、窓辺に立っていた。何も、言わなかった。

「セラフィナさま」リディアは、続けた。「その先は。器が、なにを、隠しているか」

 セラフィナの指が、紙のある一行で止まった。

 読んでいた。リディアには、それが分かった。セラフィナの唇が、わずかに動いて、けれど、声にならなかった。読めないのではない。読めて、いた。読めて、言わずに、いた。

「……ここから先は」と、セラフィナは言った。長い間のあとで。「読めても、わたくしの口からは、言えない」

「読めるのに?」

「読めるから」セラフィナは、紙を、そっと閉じるように、伏せた。「言わないことを、選べるの」

 閉じる音は、しなかった。けれど、何かが、閉じた。茶器の蓋を、音もなく置いたときのように。

 リディアは、母を見た。

「お母さんは、知ってるんでしょう」

 母の肩が、動いた。

「リディア」

「なにを隠してるか。お母さんは、知ってる」

「……知っているわ」母は、ようやく言った。窓の外を見たまま。「でも、いまは、言わない」

「どうして」

「知れば、あなたが、選ばなくていいものまで、選ぶことになる」

 前にも、聞いた言葉だった。あの夜。台所で。

「わたしから、聞きに行きます」リディアは言った。「何度でも。前に、言いました」

「ええ」母は、目を伏せた。「覚えてる」

 セラフィナが、ふたりを見ていた。叱る側でも、なだめる側でもない目で。

「ひとつだけ」と、セラフィナは言った。「言えることがあるわ。器のことではなく。器の、兄弟のこと」

「兄弟?」

「この紙に、書いてあるの」セラフィナは、伏せた紙の端だけを指で示した。山ではない、その手前の行を。「核を分けて封じた器は、ひとつではない。兄弟が、いる。離して置いても、互いを、呼ぶ」

 呼び合う。前に、聞いた。この部屋で。鐘と、石は、呼び合う、と。

「祈りの鐘」リディアは言った。

 セラフィナは、答えなかった。否定も、しなかった。それが、答えだった。

「鐘が鳴ると、石が脈打ちました」リディアは言った。「でも、鐘は、もう鳴りません。にごってから」

「鳴らなくても」セラフィナの声が、低くなった。「兄弟は、呼ぶのよ。鳴る、鳴らないは、関係ない。鐘が傷ついたなら、なおさら。傷ついたものは、半分のものを、探すから」

 半分のもの。

 リディアの、胸の石のことだ。

「だから」セラフィナは言った。「あの総長は、石を、鐘から、遠ざけたいの。あの人の言うことは、なかば、正しい。ひとつ屋根の下に、兄弟の器を置いておくのは、よくない。にごった鐘の、真下に、あなたを、置いておくのは」

 リディアは、襟もとの石に手をやった。冷たかった。鐘がにごってから、ずっと、冷たいまま。応えない石。けれど、いま、セラフィナの言葉のあとでは、その冷たさが、ちがって感じられた。黙っているのではなく、こらえているような。

「正しいなら」リディアは言った。「総長の言うとおりに、すれば」

「正しいことと、あなたを、地の底へ閉じこめることは、別よ」セラフィナは、まっすぐに言った。「あの人は、それを、分けない。わたくしは、分ける。――でも」

 セラフィナは、そこで、言葉を切った。

「でも、わたくしも、門は、開けない。あなたを、ここに、かくまうことはしない。読んであげることはできても、逃がしてあげることは、できない。わたくしは、閉じる側の人間だから」

 優しい人が、優しいまま、扉を閉じる。リディアは、それを、前にも見た。この部屋で。

「知っています」リディアは言った。「だから、自分の足で、来ました」

 テオが、戻ってきた。灰色の尼と、いっしょに。古い帳面を、一冊、抱えていた。表紙が、めくれて、角が丸くなっている。

「あった」テオは言った。「北翼の、台所勤めの、古い名簿。何十年ぶんも、ある」

 尼が、帳面を、円卓に開いた。蔓草ではない。読める字だった。けれど、古い。墨が、薄れている。

「盆を運んでいた人」リディアは言った。「中庭に立っていた人。背の低い。よく働く、と、台所の老女が」

 尼の指が、帳面の列をたどった。何枚も、めくった。北翼の台所勤め。入った年。出た年。名前。名前。名前。

 名前の多さに、リディアは目がくらみそうになった。ここに並んでいるのは、ぜんぶ、誰かに呼ばれていた名前だった。毎朝、おはよう、と言われていた名前。いまも、呼ばれているもの。もう、呼ばれなくなったもの。その区別は、紙の上では、つかなかった。

 テオが、横から列を目で追っていた。

「変だ」テオは、小声で言った。「ここ。一行だけ、間が、空いてる」

 指す先を、尼が見た。名前と名前のあいだに、一行ぶんの隙間があった。書き忘れたのではない。罫線は、引かれている。ただ、そこに、書かれていたはずのものが、ない。

 指が、その、ひとつ下の行で、止まった。

「ここ……かもしれません」尼は言った。「背丈の覚え書きが、ある。低い、と」

 名前の欄を、リディアは覗き込んだ。

 墨が、薄れていた。半分だけ、読めた。最初の一文字と、最後の。あいだは、にじんで、消えかけていた。

「これ、ですか」

「分かりません」尼は、正直に言った。「古い帳面は、湿気で、よく、こうなる。それに――」尼は、言いにくそうにした。「この一行だけ、ほかより、薄い。まわりは、もっと、はっきりしているのに」

 リディアは、その薄れた名前を見ていた。

 奪われた名前は、本人からも、呼ぶ人からも、消える。札からも、台所の口からも。それが、ここでは、紙の上からも、消えかけていた。まるで、奪う手が、古い帳面の、この一行にも、届いたみたいに。

「半分でも」リディアは言った。「書いておきます」

 父の手帳を、出した。新しいページ。炭。

 昨日は、名前のかわりに、しるしを、書いた。今日は、半分の名前を、書いた。読めた一文字と、最後の一文字。あいだは、点で、つないだ。点のところは、いつか、誰かが、思い出すかもしれない。

「足りるか?」テオが聞いた。

「足りない」リディアは言った。「これじゃ、呼べない。半分の名前は、呼べない」

 セラフィナが、円卓の向こうから言った。

「名前はね」と、ゆっくり。「一度書いても、それだけでは、戻らないの。火と、同じ。書いた紙を、机にしまっておくだけでは、消える。誰かが、毎日、読まなければ。毎日、呼ばなければ」

 毎日。

 父の手帳の一行を、リディアは思った。毎日ちゃんと探すこと。父は、毎日、と書いた。一度ではなく。

「世界に、書き直すって」リディアは言った。「思っていたより、重いことなんですね」

「ええ」セラフィナは、うなずいた。「とても」

 帰りの渡り廊下で、母が、リディアの隣を歩いていた。

 テオは、半分の名前の帳面のことを、尼ともう少し調べると言って、教会に残った。リディアは、半分の名前を写した手帳を、胸に抱いていた。

 移送の使いのことは、誰も、口にしなかった。けれど、リディアには、分かっていた。あの部屋で話しているあいだに、どこかで、何かが、決まっていく。教会にいられた時間は、短かった。

「お母さん」リディアは言った。「兄弟の器の話。お母さんは、知ってた?」

「知っていたわ」母は言った。「でも、あなたが、自分で聞いてくるまで、言うつもりはなかった」

「ずるい」

「ええ」母は、笑わなかった。「ずるいの。ずっと」

 渡り廊下の、まんなかまで来た。

 頭の上に、鐘楼があった。鳴らない鐘の、真下。にごってから、ずっと黙っている、大きな鐘。

 そこで、胸の石が、ひとつ、脈を打った。

 リディアは、足を止めた。

 冷たいままだった石が、ほんの一瞬、内側で、震えた。鐘がにごってから、はじめてだった。応えない石が、いま、応えた。誰も、撞いていないのに。

「お母さん、いまの」

 母も、止まっていた。母の顔から、いつもの静けさが、消えていた。

 母は、鐘楼を見上げた。それから、リディアの胸のあたりを見た。母の手が、リディアの肩に触れた。触れる前の、あの一瞬のためらいが、今日は、なかった。

「急ぎましょう」母は言った。「部屋へ。いまは、あの石を、人目につかないところに」

「鐘が、呼んでるの?」

 母は、鐘楼から目を離さなかった。

 リディアは、襟もとに手を当てた。冷たいはずの石が、いまは、肌より、ほんの少しだけ、温かかった。手のひらの下で、何かが、こちらへ、ほどけ出ようとしている感じがした。井戸の底の蓋が、内から、押されているような。あの日の、迷宮の感じに、似ていた。鎖が切れて、石が宙に浮いた、あの一瞬に。

 外れたい、と石が言っているのではない。鐘が、半分の兄弟を、引き寄せている。引き寄せられた石が、リディアの胸で、出口を、探している。

「お母さん」リディアは言った。「これ、自分で外れたりは、しないよね」

 母は、答えなかった。それが、いちばん、こわかった。

 母の手が、リディアの肩を抱いた。力がこもった。鳴らない鐘の真下を、母娘は、足を速めて、抜けた。胸の石は、もう一度、内側で、震えた。さっきより、ほんの少し、強く。