大魔法使いの娘
第12話

呼べない名前

朝の検分が、終わったあとだった。

 リディアは、高い窓のそばに立っていた。格子の外、中庭の隅に、まだ、あの女がいる。盆を運んでいた人。名前の戻らない人。夜のあいだも、ずっと、そこに立っていたらしい。

 朝の光が、女の足もとに、影を落としていた。ふつうの、短い、朝の影だった。ゆうべ見た、月に合わない長い影は、もう、なかった。

 それが、かえって、こわかった。

 影がふつうに戻っても、女は動かない。誰かが迎えに来るのを待っているのでもない。待つ相手の名前も、自分の名前も忘れた人は、ただ、そこに立つ。

 扉が開いた。テオだった。

「また、増えた」テオは、炭の紙きれを、卓に置いた。「ゆうべ、ふたり。けさ、ひとり」

 紙の上に、印が並んでいた。前に見たときより、数は少ない。けれど、ある。

「鐘が鳴ってたころは」テオは、印を指でたどった。「奪われるのは、鐘のあとだけだった。打って、置いて、また打つ。その拍子に、合わせて。――いまは、拍子が、ない」

「鐘、鳴ってないのに?」

「鳴ってないのに、奪われてる。前みたいに、どっと、じゃない。ひとつ、ふたつ。けど、止まらない」テオは、窓の外を見た。「雨が、やんでも、軒から垂れてるみたいに」

 あの夜は、堰を切ったみたいに、いっぺんに奪われた。母の声も、テオの裏拍も、リディアの名乗りも、その堰を、なんとか押し戻した。

 押し戻したつもりだった。

 でも、堰は、戻っていなかった。ただ、勢いが、ゆるんだだけ。水は、いまも、染み出している。一滴ずつ。誰にも気づかれない速さで。

 リディアは、中庭の女を、また見た。

「あの人の名前」と言った。「テオ、知らない?」

 テオは、しばらく、窓の外を見ていた。

「盆の人だろ。北翼の、台所の」

「うん」

「名前は……」テオは、めずらしく、言いよどんだ。「出てこない。でも、それは、僕が、もともと知らないだけかも」

 僕は、忘れない。テオは、いつも、そう言う。奪われる側ではない、と。

 その人が、思い出せない、と言った。

 テオは、紙きれを、見おろしていた。自分の書いた印を、たしかめるように。いつもなら、テオの目は、よそ見をしない。今朝は、すこし、落ち着かなかった。

「変なんだ」テオは、言った。「印は、いくつ、って数えられる。奪われた名前は、何、って、書けない。書こうとすると、もう、ない。数えられないものが、数えてるあいだに、増えてく」

 いつもの平らな声に、ほんの少しだけ、引っかかりが、あった。

 リディアは、襟もとの紙のことを、思った。古い字。蔓草の綴り。読める人が、いる。

 でも、その前に、ひとつ、できることがある気がした。

 あの女の名前を、知れば。

 呼んで、あげられる。

 台所は、北翼のいちばん奥にあった。

 行くのに、許可はいらなかった。北翼の中なら、まだ歩けた。出るのに紙がいるのは、渡り廊下の向こうだけ。

 湯気と、灰の匂いの中で、老女がひとり、鍋を見ていた。リディアが入っても、顔を上げなかった。

「あの」リディアは、聞いた。「夜に、中庭に立っている人。前はここで、盆を運んでいた人です。あの人の名前を、知りませんか」

 老女は、玉杓子を、止めた。

「盆の……」眉を、寄せる。「ああ。いたわね。背の低い。よく働く」

「名前は」

 老女は、口を、開けた。それから、閉じた。

「……変ね」と言った。「毎日、呼んでたのに。けさも、その人の分の椀を、ひとつ、出しかけて」

 老女は、棚を見た。伏せた椀が、並んでいる。そのうちのひとつだけ、向きがちがっていた。出しかけて、止めた椀だった。

「名前が……出てこない」

 老女の声が、細くなった。

「呼んでたはずなのに。毎朝、おはよう、って。名字も、あったはずなのに」

 リディアは、それ以上、聞けなかった。

 名前は、女ひとりから、消えたのではなかった。

 女を呼んでいた人たちからも、消えていた。札からも、台所の口からも。

 女の名前は、もう、どこにも、なかった。

 名前を呼ぶには、まず、知らなければならない。けれど、その名前は、もう、誰の頭にも、残っていなかった。

 呼べない名前。それを背負って、女は、中庭に、立っていた。

 リディアは、自分の部屋の扉の紙を、思った。いちばん上に、保持者。その下の、小さな括弧に、リディア。括弧の中でも、名前があるだけ、ましだと、ゆうべは、思った。

 でも、括弧の名前も、呼ぶ人がいなければ、おなじだった。誰も呼ばなければ、括弧の中の字も、いつか、誰にも、読めなくなる。

 あの女も、はじめは、台所で、毎朝、呼ばれていたのだ。

 その日の午後、リディアは、扉の外の衛兵に、もう一度、頼んだ。

「大司教さまに、お会いしたいんです。渡り廊下を、行くだけです」

「願いは、出してあります」衛兵は、壁の紙を、見た。「まだ、下りていません」

「いつ、下りますか」

「私には」

 わからない。その先は、聞かなくても、わかった。

 リディアは、廊下の奥を、見た。渡り廊下の、突き当り。鐘楼の夜は、走って行った。誰の許しも、なく。そのとき、壁は、人を止めなかった。壁を破ったのは、影だったけれど。

 いまは、壁が、リディアを、止めている。

 外の脅威からは、守るための壁。物見の鳥も、中へは入れない、王都の結界。けれど、その壁の内側には、もう、染み出すものが、いた。壁は、入ってしまったものは、止めない。

 むしろ、閉じこめられているのは、リディアのほうだった。逃げる先も、助けを呼ぶ先も、紙が下りるのを待つあいだに、どんどん、減っていく。

 リディアは、中庭へ、降りた。

 北翼の中庭なら、出られた。石畳の、まんなかに、女が立っていた。昼でも、動かない。

「あの」リディアは、女の前に、立った。

 女は、上を見ていた。鳴らない鐘を。リディアの顔を、見なかった。

 名前を、知らない。だから、呼べない。

 なら、鐘楼で、衛兵にしたことを。

「あなたは、ここに、いる」

 リディアは、言った。

「お盆を、運んでいた人。台所で、毎朝、おはよう、と言われていた人。――いま、ここに、いる」

 女の目が、わずかに、動いた。リディアの、ほうへ。ほんの、一瞬。

 でも、それだけだった。

 鐘楼の衛兵は、落としたばかりだった。名前は、すぐそこに、あった。だから、外から貼り直せば、つかめた。

 この人は、もう、何日も、立っている。落とした名前は、遠くへ流れて、いってしまった。いる、と言われても、その「いる」を、つなぎとめる名前が、ない。

 女の目は、また、鐘へ、戻った。

 女の頬には、朝の冷たさが、残っていた。息も、している。胸が、ゆっくり、上下する。生きて、ここに、立っている。それなのに、リディアには、女が、ずっと遠くの霧の中にいるように見えた。

 リディアは、自分の手が、女の袖に、届かないように、感じた。すぐ前に、立っているのに。

 名前さえ、わかれば。

 そう思った、そばから、わかっていた。

 その名前は、もう、世界の、どこにも、なかった。

 夜になった。

 テオが、また、来た。炭の紙きれを、持って。

「リディア」テオは、紙を、卓に置いた。声が、いつもより、低かった。「印の、場所が、変わった」

「場所?」

「奪われるところ。前は、鐘楼に近い部屋ほど、多かった。中庭も、台所も、鐘楼のすぐ下だ」テオは、紙の、いちばん新しい印を、指した。「けさから、こっちに、寄ってる」

 こっち。テオの指が、たどった先は、リディアの部屋の、あたりだった。

「数えまちがい、かもしれない」テオは、言った。それから、すぐ、言い直した。「いや。何度、数えても、おなじだ。数は、こっちに、寄ってる」

 リディアは、窓の外を、見た。中庭の女は、もう、見えなかった。暗くて。

 部屋の灯りが、ふいに、細くなった。

 風は、なかった。格子の窓は、閉じている。それなのに、炎が、息を吸われたように、縮んだ。

 ろうそくの、すぐ上の闇が、ほんの少し、濃くなった気がした。

 あの夜の、広間と、同じだった。けれど、あのときのように、大きな影は、現れなかった。床に伏せた獣も、ふたつの点も、なかった。

 ただ、部屋の空気が、薄く、なった。

 水を、絞るように。じわじわと。

 母が、扉の前から、立ち上がった。

「リディア」

 母は、リディアの、隣に、来た。前ではなく、隣に。

「ここに、いて。わたしの、声の、届くところに」

 それは、痛みでは、なかった。

 胸の石も、鳴らなかった。鐘が鳴った夜のように、片割れに呼ばれて、脈打つことも、なかった。

 ただ、リディアは、自分が、すこしずつ、薄く、なっていくのを、感じた。

 いつもの薄さとは、ちがった。いつもの薄さは、人が、リディアを、見落とす。今夜のは、リディア自身が、自分を、見落としそうに、なる。

 わたしの、名前は。

 そう、思おうとして。

 最初の、ひと文字が、口の中で、ほどけた。

 リ、の、かたち。それが、遠くなる。指のあいだから、砂が、こぼれるように。自分の名前なのに。何度も、何度も、手帳に書いた名前なのに。

「お母さん」

 声だけは、出た。

「わたし、なまえ」

「リディア」

 母が、言った。すぐに。間を置かずに。

「あなたは、リディア。リディア・アークライト。わたしの、娘」

 リ、の、かたちが、戻ってきた。母の口から、こちらへ。

「テオ」母は、振り返った。「呼んで。あなたも」

 テオは、一瞬、戸惑った顔を、した。呼ぶ、ということを、したことが、ないみたいに。テオは、いつも、数える側だった。見て、書いて、報せる側。

 でも、テオは、口を、開いた。

「リディア」

 淡々と。いつもの、平らな声で。けれど、まっすぐに。

「君は、リディアだ。足音が、薄い。気配も、薄い。最初に、僕が、見つけた。――まだ、いる」

 ふたつの声が、リディアの名前を、両側から、押さえた。

 こぼれかけた砂が、手のひらに、戻ってくる。リ、ディ、ア。ひと文字ずつ。母の声と、テオの声で、形をなぞり直すように。

 部屋の闇が、ぎし、と、軋んだ。

 歌の、終わりに、似た音。鐘楼で、聞いた、乾いた声。けれど、今夜は、言葉に、ならなかった。

 リディアの名前を、奪おうとして。

 また、奪えなかったのだ。

 その名前は、いま、ふたつの口に、しっかりと握られていた。世界のどこにも残らない、あの女の名前とは、ちがって。呼ぶ人が、いた。

 濃くなった闇が、ゆっくりと、薄れた。絞られていた空気が、もとに、戻る。ろうそくの炎が、また、ふくらんだ。

 退いた、のではなかった。鐘楼のときのように、何倍もの速さで、逃げて、いったのでも、なかった。

 水が、引くように。来たときと同じ、静かさで、染みを、残して、消えた。

 しばらく、誰も、しゃべらなかった。

 母が、リディアの手を、握っていた。いつのまにか。強く。あの夜営の朝とは、逆だった。あのときは、リディアが、声で、母に、見つけてもらった。今夜は、母とテオの声が、リディアを見つけた。

「声は」母が、低く、言った。「届いたみたいね」

 リディアは、うなずいた。うまく、声が、出なかったので。

 テオが、炭の紙きれを、また、見た。

「印、止まった」と言った。「いまのところ」

 いまのところ。その言葉が、部屋に、残った。

 明け方、リディアは、また、窓のそばに、立っていた。

 中庭の、隅を、見た。

 女は、いなかった。

 石畳の、まんなかに、誰も、立っていない。連れていかれたのか、自分で、歩いて、いったのか。わからない。札にも、名前のない人は、いなくなっても、誰も気づかない。盆の数も、椀の数も、変わらない。はじめから、いなかったように。

 リディアは、卓の引き出しを、開けた。父の手帳。炭。

 手帳の、新しいページを、開いた。

 いつもなら、名前を、書く。ユアン。ネリ。メル。お母さん。リディア。テオ。覚えておきたい名前を、ひとつずつ。

 今朝は、書く名前が、なかった。

 あの女の名前を、リディアは、知らない。書きたくても、書けない。

 リディアは、炭を、握ったまま、しばらく、白いページを、見ていた。

 それから、名前のかわりに、しるしを、ひとつ、書いた。中庭の、石畳のまんなか。そこに立っていた、誰か。名前は、もう、世界に、ないけれど、いた、ということだけは。

 わたしが、覚えている。

 でも、覚えているだけでは、足りない、と、思った。覚えているのは、リディアの中だけ。リディアがいなくなれば、それも消える。名前は、口から口へ、移していくものだ、と、あの声は言った。呼ぶ人がいなくなれば、消える、と。

 なら、取り戻す道は、ひとつしか、なかった。

 失われた名前を、もう一度、世界に書きつける。誰かが、まだ覚えているところから、探し出して。

 古い記録なら。台所の、古い帳面なら。教会の、古い名簿なら。

 また、教会に、たどりつく。古い字を、読める人。

 リディアは、襟もとの紙を、握った。石の、すぐ上。

 行くしか、ない。許可が下りるのを待っていたら、次に消えるのは、たぶん、リディアのまわりの誰かだ。

 窓の外で、空が、白んでいく。

 リディアは、扉に、手を、かけた。鍵は、外側にしか、ない。中からは、開かない。

 それでも、手を、離さなかった。

 誰かが、石を検分しに来る。その刻限に、扉は、開く。開いた、その隙に。

 リディアは、扉の前で、待った。

 刻限の鐘は、鳴らない。

 だから、いつ開くのか、リディアには、わからなかった。