大魔法使いの娘
第11話

あるべき場所

リディア・アークライトの名前は、いま、括弧の中にある。

 部屋の扉の内側に、紙が一枚、貼ってあった。いちばん上に、大きな字で、第三封印具・保持者。そのすぐ下の、小さな括弧の中に、リディア、とある。

 そういう書き方をするのだ、と思った。

 名前を消すのではない。残してある。ただ、いちばん大事なものの下の、付け足しのところに。

 夜明けの鐘は、あの夜から鳴らなくなった。

 にごった音を、街に聞かせないため。はじめは、そう聞いた。けれど、幾日か過ぎても、鐘は戻らなかった。朝が、合図をなくした。聖域は、鐘ではなく紙で回りはじめていた。

 扉の紙には、刻限がならんでいた。朝、検め。昼、検め。灯を消す刻限。食事を運ぶ刻限。だれが決めたのかは、書いていない。決まっている、とだけ書いてあった。

 その朝も、刻限のとおりに、灰色の長衣が来た。

 透きとおった杖の先を、リディアの襟もとへ近づける。しばらく待つ。杖の先の小さな水晶が、灰色ににごる。長衣は、それを帳面に書きうつした。日付。刻。にごりの濃さ。

「……何が、見えるんですか」

 リディアが聞くと、長衣は書く手を止めなかった。

「記録は、総長へあがります」

「わたしの、体のことです」

「お答えする立場には、ありません」

 長衣は、頭をさげて出ていった。検めは、毎日になっていた。王都に着いた日は、門で一度きりだった。いまは、一日に二度。水晶のにごりが、日ごとにどう変わるか。それを、だれかが線にして見ている。

 長衣の足音が遠ざかってから、リディアは卓の引き出しを開けた。

 父の手帳の下。折りたたんだ紙が一枚、はさんである。禁書庫で、自分のページから破り取った紙。

 あの夜、開くと決めた。鐘がにごるのを見て。隠れていても、いちばん奥が傷つくのなら、と。

 けれど、まだ、ぜんぶは読めていなかった。

 折り目をひらく。

 古い字だった。はじめの行は読めた。コレーの環。それは、もう知っている。次の行もなんとか。境界に立つ者を――そこから先が、知らない字になった。文字の形が、いまの字とちがう。蔓草が絡まったような、古い綴り。

 わかるのは、とびとびの単語だけ。

 器。薄れる。世から。

 その三つが、おなじ行にならんでいた。けれど、あいだをつなぐ字が読めない。意味の通る文には、ならなかった。読める字と読めない字のあいだに、いちばん大事なことが落ちている。そんな気がした。

 だれか、古い字を読める人が。

 そこまで思ったとき、廊下に足音がした。

 ひとつでは、なかった。

 リディアは、紙をたたんで手帳の下に戻した。

 扉が鳴った。

 灰色の長衣が三人、先に入ってきた。それから、もうひとり。

 長衣では、なかった。濃い灰青の上衣。襟も袖口も、きっちりと留めてある。背が高く、痩せていた。年は、母より上に見えた。髪は、ほとんど白い。

 その人が入ると、長衣たちが半歩、下がった。

「魔術院総長、アデルバートさまだ」

 名乗ったのは、本人ではなかった。脇の長衣が言った。本人は、もう部屋を見ていた。

 人を見る目では、なかった。隅から隅へ。窓の格子。扉の鍵。卓。寝台。そして、リディアの襟もと。置いてあるものの数をたしかめる目だった。

 母が、リディアの前に出た。

「ごあいさつなら、先にこちらへ」

 アデルバートは、母を見た。すこし間があった。

「白暁の、エレノア殿」声は、低く平らだった。「あなたの名は、記録で存じている。十六年前、聖域の最深部から第三封印具が持ち出された。その持ち出しの控えの、いちばん下にある名だ」

「娘は、関係ありません」

「娘」アデルバートは、その語をなぞるように言った。「ここに、娘はおりません。第三封印具と、その保持者がいる」

 リディアは、その言葉をどこかで聞いた気がした。

 あの夜の影だ。ちいさい火が来た、と影は言った。お前ひとつより、もっと大きな火がある、と。あれも、リディアを見てはいなかった。襟もとの石を見ていた。

 影は、石をほしがった。

 この人は、石をしまいたがっている。

 ほしがるのと、しまいたがるのは、ちがう。けれど、リディアを見ていないところは、おなじだった。

 アデルバートは、窓の外の鐘楼を見た。

「あの鐘が、にごった。何百年、にごらなかった鐘が」彼は、リディアの襟もとへ目を戻した。「中に眠るものと、その襟もとの環とは呼び合う。呼び合うものを、ひとつ屋根の下に置いた。それが、にごりを呼んだ」

「あの夜は、侵入者が」リディアは言いかけた。「壁の中まで入って」

「影は、退いた」アデルバートは、さえぎらなかった。ただ続けた。「退いたものの話は、しない。残ったものの話をする。鐘は、にごった。これは、残った。残るものだけが、記録になる」

 退けたのは、母の光だった。テオの数えた裏拍だった。リディアの声だった。

 それは、退いたから記録にならない。

 残ったのは、にごった鐘の音と、戻らない名前と、破られた壁だけ。

「環は」アデルバートは言った。「保持者とともに、あるべき場所へ移す。最深部の封印房へ。鐘から、できるだけ遠くへ。呼び合わぬ距離まで」

 あるべき場所。

 その言い方を、リディアは前にも聞いた。セラフィナが教えてくれた。総長は、石をあるべき場所へ戻すべきだと考えている。そこに、娘の席はない、と。

「あの子を」母の声が、はじめてとがった。「地の底へ、閉じこめると」

「閉じこめる、とは」アデルバートは、表情を変えなかった。「言い方の問題だ。封印房は、聖域でいちばん安全な場所だ。壁が、いちばん厚い。あの夜、北翼の壁は破られた。安全でない場所に、危険なものを置いておく理由はない」

「あの子は、危険なものでは――」

「感情の話は」アデルバートは、母を見た。「控えに、残らない」

 母が、口をつぐんだ。

 王都の門でも、そうだった。母は、娘の体に触れるなと検め師の杖を押さえた。けれど、検めそのものは止められなかった。総長の指示だから、と。母の名は、白暁の魔女の名は、王都ではある線から先へは通らない。

 その線を引いた人が、いま、目の前に立っていた。

 アデルバートは、脇の長衣に何か短く言った。長衣が、帳面に書きつける。移送の日取りでも決めるように。

 それから総長は、もう一度だけリディアの襟もとを見て、出ていった。最後まで、リディアの顔は見なかった。

 扉が閉まったあと、しばらく、だれもしゃべらなかった。

 リディアは、自分の手を見た。震えてはいなかった。怖いというより、足の下の床が急に薄くなったような、心もとなさだった。

 母が、隣に来た。

「お母さん」リディアは聞いた。「移すって。地の底に」

「させないわ」

「でも、止められなかった」

 母は、答えなかった。それが、答えだった。母の名で止められる線の外側に、いま、自分たちはいた。

 なら、とリディアは思った。

 母の名で通らないなら。

 自分の名で言うしかない。

 あの夜、影にしたように。

「あの」

 声は、震えた。それでも、止めなかった。母が止めても、自分は言う、と決めていた。

 でも、止める相手は、もう部屋にいなかった。

 リディアは、扉の外の衛兵に向かって言った。次に検めに来る長衣にでもいい。だれでもいい。聞いている、だれかに。

「わたしの名前は、リディアです。保持者じゃなくて。リディア・アークライトです」

 扉の外で、衛兵がすこし動く気配がした。

 それから、紙のめくれる音がした。

 壁の、刻限の紙だ。衛兵は、それをたしかめている。この声に、何か応じる刻限があるかどうかを。

 たぶん、なかった。

 衛兵は、何も言わなかった。

 鐘楼で影に名乗ったときは、影は戸惑った。リディアの名をつかもうとして、つかめずに。けれど、いまは、つかもうとする手すらなかった。名乗っても、つかまれない。つかまれもせず、ただ、刻限の紙のどこにも書いていない声として、廊下の灯りに溶けていった。

 影は、名前をほしがった。ほしがるから、奪えなかったとき止まった。

 ここの人たちは、名前をほしがらない。

 ほしがらないものは、奪えない。けれど、戸惑いもしない。括弧の中にしまって、上から刻限の蓋をする。それだけだった。

 リディアは、扉に背をあずけた。

 名乗ることが武器になる、と思っていた。あの夜は、そうだった。でも、武器が効くのは、相手がそれをほしがっているときだけ、なのかもしれない。

 その日の午後。

 リディアは、灰色の尼のことばを思い出した。また、いらっしゃい。お茶だけでも。

 大司教さまなら。

 セラフィナなら、古い字も読めるかもしれない。閉じる側の人だと、本人が言った。それでも、王都でただひとり、石ではなく娘の名で呼んでくれた人だった。

 リディアは、扉を開けて、外の衛兵に言った。

「大司教さまに、お会いしたいんです。前に、来てもいいと言われました」

 衛兵は、困った顔をした。それから、壁の紙を指した。

「外出は……願いを出していただかないと。総長府へ。下りるまでは、北翼を出ないように、と」

「どのくらいで、下りますか」

「さあ」衛兵は、目を伏せた。「私が、決めることではないので」

 リディアは、廊下の奥を見た。

 渡り廊下の先に、教会側がある。歩いていける。鐘楼の夜は、走っていった。だれの許しもなく。

 いまは、そこへ行くのに、紙がいる。願いを出して、だれかがそれを読んで、判を押して、下りるのを待つ。下りるころには、移送の日取りのほうが先に来るかもしれない。

 壁は、人を止めるもの。母が、関所でそう言った。

 その壁を、影はたやすく破った。

 影には破れた壁を、リディアは出られなかった。

 夜、テオが来た。

 夕食の盆は、もう別の者が運ぶことになっていた。テオは、ただ来た。隣の小部屋に、まだいるらしい。弾かれずにすんでいるのは、リディアが門で名前で保証したからだ。あの登録だけは、まだ生きていた。括弧の中の名前でも、だれかひとりの保証にはなっていた。

「鐘、鳴らないね」テオは、窓の外を見て言った。

「うん」

「変なんだ」テオの声は、いつもの平らな声に戻っていた。「鳴らないのに、数えられる」

「数える?」

「鐘が鳴ってたころ、名前が奪われるのは、鐘のすぐあとだった。覚えてる?」

 覚えていた。あの夜、テオは、その裏拍で三人を走らせた。

「鐘が鳴らなくなってから、奪われる回数は減った。ずっと減った。――でも、ゼロにはならない」

 テオは、炭の紙きれを出した。新しい印。前より、ずっと少ない。けれど、ある。

「それに」テオは、紙のいちばん下を指した。「戻らない名前が、ある」

「戻らない?」

「あの夜、名前を奪われた人。ほとんどは、次の朝、思い出した。自分の名前も、持ち場も」テオは、印をひとつひとつ、なぞった。「でも、何人か、戻らない。盆を運んでた、あの人。北の端の見回りの、ひとり」

 リディアは、息をついた。

「その人たちは、いまも自分の名前を思い出せない。だれも、その人を呼べない。札にも書いてない。括弧の中にも、いない」

 括弧の中にも、いない。

 リディアは、自分の部屋の扉を見た。紙のいちばん上に、保持者、とある。その下の小さな括弧に、リディア、とある。

 括弧の中にでも、名前があるだけ、まだましなのかもしれない。

 名前を落とした人は、括弧にもいない。喰われたのか、しまわれたのか。聖域のどこかで、自分がだれだか、わからないまま立っている。

 喰われたのと、しまわれたのとで、何がちがうのだろう。

 どちらにしても、その人を呼ぶ声は、もう、どこにもなかった。

「テオ」リディアは聞いた。「古い字、読める?」

「古い字?」

「ずっと昔の綴りの。蔓草みたいに、つながった」

「読めない」テオは、すぐに言った。それから、すこし考えた。「でも、読める人なら知ってる。っていうか、君が会ってる」

「だれ」

「お茶をくれた、おばあさん。あの建物の人たちは、古い祈りを毎日読んでるんだろ。古い祈りは、たぶん、古い字だ」

 リディアは、テオを見た。

 教会。セラフィナ。やっぱり、そこへたどりつく。

 行くのに、許可がいる場所。

 その夜、リディアは、なかなか眠れなかった。

 高い窓の、格子の外。中庭に、ひとつ灯りが見えた。

 衛兵の見回りの灯では、なかった。動かない。中庭のまんなかで、ひとり立っている。よく見ると、盆を運んでいた、あの女だった。名前の戻らない人。

 夜中に、なぜ、そんなところに。

 女は、上を見ていた。鐘楼の、鳴らない鐘を。自分がなぜそこに立っているのかも、わからないように。ただ、見上げていた。

 リディアは、卓の引き出しを開けた。父の手帳の下の紙。古い字。蔓草の綴り。

 願いが下りるのを待っている時間は、たぶん、ない。中庭のあの人は、もう、自分の名前を待つことも忘れてしまった。待っていると、自分も、いつか、あの中庭に立つことになる。括弧の外へ、こぼれて。

 リディアは、紙をたたんで襟もとに入れた。石の、すぐ上に。

 明日、もう一度、衛兵に頼む。だめなら、長衣に。それでも、だめなら――歩いていく。許可の下りない渡り廊下を、こんどは、自分の足で。

 窓の外で、鳴らない鐘が、月をにぶく返していた。

 中庭の女の、足もとの影が、いやに長かった。

 月は、まだ低いのに。

 リディアは、襟もとの石を握った。

 石は、冷たいまま、こたえなかった。

 それでも、握る手を、ゆるめられなかった。