鐘楼の夜
その夜、聖域は、名前を、いっせいに落としはじめた。
はじまりは、いつもの鐘だった。
夕の鐘が鳴って、その尾が、空から消えて。それから、いつもなら、ことり、とひとつだけ鳴っていた小さな音が――やまなかった。
ことり。ことり。ことり。
弱い雨だれのように、間を詰めて、聖域のあちこちで、鳴りつづけた。
テオは、長椅子の上で、起き上がっていた。膝に、炭の紙きれを広げている。けれど、もう、書いていなかった。
「追いつかない」
めずらしく、テオの声が、平らでなかった。
「ひとつ数えるあいだに、三つ、来る。四つ来る。線を引くより、落ちるほうが、はやい」
廊下で、人の声がした。衛兵の声だ。けれど、交代の合図ではなかった。
「おまえ、だれだ」
「……知らん。おまえこそ、だれだ」
「ここは。ここは、どこの持ち場だ」
「持ち場……なんの、持ち場だ」
槍を取り落とす音。そのあと、誰のものともしれない足音が、行き先をなくして、廊下を、いくつも往復した。
名前を落とすことに、地図があると、テオは言った。中心は、鐘だと。
その中心が、いま、堰を切っていた。
胸の石が、鳴った。
とくり、ではなかった。とくり、とくり、とくり、と。鐘の小さな音に、合わせるように。いや、呼ばれるように。
リディアは、襟の上から、石を押さえた。押さえても、止まらない。石が、自分のものでないみたいに、勝手に、丘の上の何かへ、こたえている。
呼び合うのよ、とセラフィナは言った。
いま、片割れが、呼んでいる。
「お母さん」
母は、もう、窓辺にいなかった。扉の前に、立っていた。
「鍵が、開かないわ」
母の声は、低かった。
「外からしか、かからない扉なの。中の人が、開けてくれなければ、出られない。――その、中の人が」
名前を、なくしている。
持ち場を、忘れている。
「閉じこめられた」リディアは言った。「守るために、閉じる側に」
守るための扉が、いま、いちばん危ない場所に、自分たちを、閉じこめていた。
母が、扉に、手をかざした。
白い光が、刃のかたちに、集まる。町を出てからの夜に、何度も見た光だった。
「下がっていて」
光が、鍵のあたりを、薄く、なでた。木の焦げる匂いがして、かんぬきの落ちる音がした。扉が、内へ、ひらく。
廊下に、灯りはあった。けれど、人の輪郭が、薄かった。
衛兵がひとり、壁にもたれて、すわりこんでいた。槍を抱えたまま、自分の手を、知らないもののように、見つめている。
「あなた」母が、声をかけた。「立てる?」
衛兵は、母を見上げた。それから、母の顔の、すぐ向こうを、見た。誰を見ればいいのか、わからない目だった。
「……だれ、ですか」
母は、それ以上、聞かなかった。
リディアは、すわりこんだ衛兵の前に、膝をついた。
ゆうべ、影に、テオの名を奪われかけた。あのとき、手帳の名前を、声に出して、取り戻した。書いた名前が、武器になった。
でも、この人の名前を、リディアは、知らない。手帳にも、ない。
知らない名前は、呼べない。
なら、と思った。
「あなたは、ここに、いる」
名前のかわりに、それを言った。
「北翼の、夜番の人。さっきまで、槍を持って、立っていた人。――いま、ここに、いる」
衛兵の目が、すこし、定まった。名前ではない。役目でもない。ただ、いる、ということを、外から、もう一度、その人に、貼り直した。
立てた。よろよろと、壁を伝って。
「鐘楼へは」リディアは聞いた。「どう行くんですか」
「鐘楼……」衛兵は、つぶやいた。それから、自分でもおどろいたように、廊下の奥を、指さした。「渡り廊下を、いちばん奥。教会側の、突き当り」
体は、覚えていた。名前を落としても、足の向きだけは、残っていた。
「行くの」母が、リディアを見た。
止める声では、なかった。たしかめる声だった。
「石が、呼ばれてる」リディアは言った。「丘の上から。ずっと。――あれを、放っておいたら、たぶん、朝には、誰も、誰の名前も、思い出せなくなる」
待っていれば、誰かが助けに来るのかもしれない。でも、その誰かが、もう、自分の名前を、落としている。
「お母さんは、わたしを、隠して守ってきた」
リディアは、立ち上がった。
「今夜は、隠れない」
母は、しばらく、リディアを見ていた。
それから、扉のほうへ、半歩、身を引いた。リディアが、先に出られるように。
「離れないで。わたしの光の、届くところにいて」
前に立つ、ではなかった。隣に、という距離だった。
渡り廊下は、長かった。
夜の聖域は、人の声を、なくしていた。あちこちの戸口で、人が、立ちつくしている。札を見て、名を読んで、その先につながる顔を、探して、見つけられずにいる。
テオが、いちばん後ろを、歩いた。紙きれは、もう、しまっていた。かわりに、目だけが、せわしなく、動いていた。
「リディア」テオが、低く言った。「鐘の音と、いっしょだ」
「え?」
「名前が落ちるの。鐘の、小さい音が鳴った、すぐあと。打って、すこし置いて、また打つ。その、置いてるあいだは――落ちない」
ことり、と、また鳴った。そのあとすぐ、近くの戸口で、誰かが、言葉を、なくした。
テオの言うとおりだった。
音と、音の、あいだ。そこだけ、忘却が、息を、つく。
「次の音まで、すこし、ある」テオが言った。「いまだ。走るなら、いま」
三人は、走った。
音が鳴るたび、テオが「止まって」と言い、リディアと母は、足を止めた。鳴りやんで、間ができると、「いま」と言った。走った。また「止まって」。
名前を喰う拍子の、その裏拍を、テオは、数えていた。こわがらない子の、こわがらない目が、はじめて、役に立っていた。
渡り廊下の突き当りに、大きな両開きの扉があった。
その向こうに、鐘楼の根もとの、円い広間があった。
高い、高い天井。見上げるほど上に、太い梁が組まれ、その奥の闇に、巨きな鐘が、ぶら下がっている。床には、何百年ぶんの祈りで、すりへった石。壁のくぼみのろうそくは、ぜんぶ、消えていた。
消えていないのは、一点だけ。
鐘の、すぐ下。
暗がりが、暗がりよりも、濃くなっている場所があった。そこに、ふたつ、灯りを返さない点が、浮いていた。
ゆうべの、影だった。
けれど、ゆうべより、大きかった。床に伏せた獣が、息で、ふくらんだり、しぼんだりするように。広間ぜんたいの暗さを、吸って、太っていた。
影が、上を、見ていた。
鐘を。その奥の、もうひとつの石を。
「来たか」
乾いた声が、広間に、満ちた。歌の、終わりに似た声。けれど、ゆうべより、ずっと、満ち足りていた。
「ちいさい火が、来た。半分、消えかけの火が」
影が、ゆっくりと、鐘から、目を、移した。リディアへ。
「ゆうべは、つかめなかった。今夜も、つかめまい。――だが、もう、いらぬ。お前ひとつ落とすより、ここには、もっと大きな火がある」
影の、濃いからだが、鐘のほうへ、伸び上がった。
その、鐘の口の、ふちに、黒い、ひとすじが、もう、巻きついていた。ゆうべ、屋根を降りていった、あの点。それが、いま、片割れの石へ、手を、かけている。
胸の石が、引きつった。
外せば。
その考えは、もう、ゆうべ知った誘惑では、なかった。ゆうべは、外したいと思って、止めた。今夜は、ちがう。
いま、外せば。
あの夜のように、ぜんぶ見える。影の芯も、鐘に巻きついた手も。見えれば、撃てる。撃てば、消せる。この一発で、終わる。
手が、襟へ、動いた。
石は、すぐそこで、鐘の片割れと、呼び合っている。外して、ここで力を解けば――石は、片割れに、いちばん近い。呼び合うふたつが、いっぺんに、目を覚ましたら。
なにが起きるのか、リディアは、知らなかった。
知らないのに、わかった。それだけは、起こしては、いけない。
手を、止めた。
外さない。今夜は、外さないと、決めて、ここへ来た。
「テオ」リディアは、後ろを見ずに、言った。「拍子は」
「来る」テオが言った。「三つ……二つ……音の、あと。――いま」
母の手から、刃の光が、走った。鐘に巻きついた、黒いひとすじへ。
光が、ひとすじを、断った。鐘の口から、黒い手が、ほどける。影が、初めて、声を、荒げた。歌ではない、軋みのような音。
その、ほどけた憎しみが、ぜんぶ、リディアへ、向きを変えた。
広間の暗さが、波になって、押し寄せた。
近づく波の中で、リディアは、知っている名前を、思い出せなくなっていく。テオ。母。ユアン。ネリ。ひとつずつ、口の形を、なくしていく。
でも、もう、ゆうべ、おぼえた。
名前が消えるなら、消えないところから、呼び戻せばいい。
リディアは、手帳を、開かなかった。開く間は、なかった。かわりに、声を、いちばん遠くへ、投げた。
「みんな!」
広間に、声が、響いた。
「夜番の人! 盆を運んでた人! 名前を忘れた、みんな!」
渡り廊下のほうで、立ちつくしていた人影が、いくつか、こちらを向いた。
「あなたたちは、ここに、いる! 名前を、思い出せなくても、いる! わたしが、覚えてる! あなたたちが、ここにいたって、わたしが、覚えてるから!」
名前は、呼べなかった。知らないから。
でも、いる、と言うことは、できた。ゆうべ、衛兵に、したように。ひとりに、したことを、広間ぜんたいへ。
波が、ほんの一瞬、ひるんだ。
喰うべき火が、消えるのをやめて、こちらを、見返したからだ。忘れられかけた人々が、忘れられることを、やめたからだ。
その一瞬を、テオが、数えた。
「いま」
母の、二つ目の光が、影の、ふたつの点を、横から、貫いた。
影が、ちぢんだ。
「わたしの名前は、リディア」
ちぢむ影に、リディアは、自分の名を、突きつけた。
「リディア・アークライト。何度でも、名乗る。――あなたには、喰えない」
なぜ喰えないのか、リディアには、わからなかった。影にも、わからないようだった。つかもうとして、また、こぼした。けれど今夜は、その戸惑いに、かまっている暇は、なかった。
影は、退いた。
来たときの、何倍もの速さで。鐘の根もとの闇へ、溶けて、消えた。
あとに、静けさが、落ちた。
静けさの中で、鐘が、ひとりでに、鳴った。
誰も、撞いていない。風も、ない。
それなのに、鐘が、低く、長く、鳴った。
いつもの、太く、澄んだ音では、なかった。
ひびの、入った音だった。打って、すこし置いて、また打つ――その、置くべき間が、消えて、尾が、にごって、ふるえていた。
テオが、つぶやいた。
「鐘の音が……変わった」
影は、退いた。鐘の片割れも、奪われては、いない。まだ、丘の上に、ある。
けれど、触られた。
巻きつかれて、ほどく前に、ひとさわり、された。何百年も、祈りで、上から塗り重ねて、蓋にしてきた音が――いま、ひびの入った音で、鳴っている。
あの鐘が鳴れば、人は、安心して眠るのだと、聞いた。壁は、人を止めるのだと。
その鐘が、にごっていた。
壁の内側まで、入られたのだ。聖域の、いちばん奥の、いちばん高いところまで。
夜番の人々が、広間の入口に、集まってきていた。名前は、まだ、戻っていない。誰が誰かも、わからないまま。それでも、にごった鐘の音を、見上げて、立っていた。
いる、と言われたから、いる場所を、なくさずにすんだ人たち。
母が、リディアの隣に、来た。
「……あなたは、外さなかった」
「うん」
「外せば、勝てたかもしれないのに」
「勝っても」リディアは、にごった鐘を、見上げたまま、言った。「石が、目を覚ましたら。たぶん、勝ったのは、わたしじゃ、なかった」
母は、何も、言わなかった。
その沈黙は、ゆうべの「お父さん似ね」の沈黙とは、ちがった。
ほこらしさと、こわさが、半分ずつ、混じった、息だった。
明け方近く、リディアは、高い窓のそばに、立っていた。
テオは、また、長椅子で、眠っていた。母は、扉を、開けたままにして、その前に、すわっていた。もう、閉じこめられるのは、ごめんだと、いうように。
空が、すこしずつ、白んでいく。
いつもなら、夜明けの鐘が、鳴るころだった。
鐘は、鳴らなかった。にごった音を、街じゅうに聞かせないために、誰かが、止めたのだろう。鳴らない鐘の下で、聖域は、ひっそりと、夜明けを、迎えていた。
そのときだった。
遠く、王都の壁の、ずっと外で。
地の底を、何かが、踏んだ。
音では、なかった。足の裏から、腹のあたりまで、ひとつ、ずん、と伝わってくる、重さだった。鉄を、地に、突き立てたような。一歩。それから、また一歩。
窓の外の、白みかけた地平の、いちばん遠いところ。そこの暗さだけが、夜のまま、残っていた。
その暗さが、こちらへ、傾いた気が、した。
母が、立ち上がっていた。
窓の、リディアの隣に、来て、遠い地平を、見た。母の顔から、いつもの、隠す静けさが、消えていた。かわりに、ずっと昔の、戦いを知っている人の顔が、出ていた。
「お母さん。あれ、なに」
「……夜の影は」母は、低く言った。「使いだったのよ。今夜のも、ゆうべのも。数を、確かめに来た、使い」
遠い地平の暗さが、また、ひとつ、重く、傾いた。
「使いを出した、もとが」母は、言葉を、選んだ。「動きはじめた。たぶん、ここよりも、ずっと、大きいものが」
名前は、言わなかった。リディアも、聞かなかった。聞いても、まだ、答えの返ってこない種類のものだと、わかったから。
リディアは、窓から、離れた。
卓の引き出しを、開ける。父の手帳の下に、折りたたんだ紙が、一枚、はさんである。禁書庫で、自分のページから、破り取った、あの紙。コレーの環、と書かれた、自分の正体の、断片。
ずっと、読めずに、持っていた。読むのが、こわかった。読んでしまえば、隠れていられなく、なる気がして。
でも、隠れていても、鐘は、にごった。壁の内側まで、入られた。隠して、守って、閉じこめても、いちばん奥が、傷ついた。
なら。
リディアは、紙の、折り目を、開いた。
「お母さん。これ、読む。――わたしが、なんなのか。ぜんぶ、知りたい」
母は、止めなかった。
窓の外、遠い地平で、夜の最後のひとかけらが、もう一歩、重く、こちらへ、傾いた。