大魔法使いの娘
第9話

名喰いの影

朝の北翼は、静かだった。

 静けさにも、種類がある。

 きのうまでの静けさは、大勢が息をひそめている静けさだった。けさのは、ちがう。人はいる。足音もする。それなのに、その足音が、廊下のなかばで、行き先を忘れたように、止まる。

 リディアは、寝台に起き上がったまま、止まる音を、いくつも聞いていた。

 数える癖は、きのうテオに頼んだときから、自分にも、うつっていた。

 扉の外で、衛兵の声がした。

「おい。北の端の見回りは、だれが立ってた」

「……おまえだろう」

「おれは、こっちだ」

 短い間。

「じゃあ、北の端は、だれだ」

「……」

 ふたりとも、笑わなかった。きのうの夜番は、笑って流していた。疲れてるな、と。けさは、流せる者が、いなかった。

 朝の盆を運んできた下働きの女は、扉を、三つ、まちがえた。

 札を見て、部屋の前まで来て、それから、盆を抱えたまま、廊下のまんなかで、立ちつくす。札に書かれた名と、その向こうにいるはずの人とが、女のなかで、つながらないのだ。

「あの……ここ、どなたの、お部屋でしたか」

 リディアが戸口から顔を出すと、女は、ほっとした顔になった。それから、すぐに、その顔も、あいまいになった。リディアの顔を見ても、つなぐ先が、ないのだ。

 いつものことだ、と思おうとして、ちがう、と思い直した。

 いつものは、わたしだけが、忘れられる。

 けさは、みんなが、みんなを、忘れかけている。

 盆を受け取ると、女は、何度も頭を下げて、来た方へ、戻っていった。途中で、また、足が止まった。自分が、どこから来たのかも、あいまいになったらしい。

 忘れられることなら、リディアは、だれよりも知っている。

 名前を飛ばされる。班分けで余る。配られる紙が、一枚足りない。その痛みの形なら、目をつぶっても、なぞれる。

 でも、いま起きているのは、それでは、なかった。

 わたしが、忘れられるのではない。

 みんなが、おたがいを、忘れていく。たったひとつ、自分が得意だと思っていたことが、いま、町じゅうの――いや、聖域じゅうの人に、うつっている。得意なことが、うつる。それが、いちばん、いやだった。

 母は、もう起きていた。窓ぎわに立って、高い格子の外を、見ている。

「眠れた?」リディアは聞いた。

「壁が、いっぱいあるから」

 ゆうべのリディアの言葉を、母が、そのまま返した。

 けれど、笑っては、いなかった。

「お母さん。外に、何か」

「鳥が、いないの」母は言った。「壁の外にも、けさは、いない」

 二羽の黒い鳥は、王都に入る前から、壁の外で、円を描いていた。越えれば知られる、と母は言った。見張るだけで、入ってはこない鳥だった。

 その鳥が、けさは、いない。

「いなくなったの?」

「越えたのかも、しれないわね」

 母は、それ以上、言わなかった。

 リディアは、卓の上の、父の手帳を、引き寄せた。

 六つの名前が、炭で、そこにある。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。そして、ゆうべ書いた、六つ目。

 自分の名前を、自分で書いた手は、まだ、その字の濃さを、覚えていた。

 けさは、その手で、もうひとつ、数えることにした。

 だれかが、だれかの名前を、落とした回を。

 テオが来たのは、日が傾いてからだった。

 夕食の盆を、また自分で運んできた。空いた手に、炭で線を引いた紙きれを、はさんでいる。

「数えた」

 すわるなり、テオは、紙を卓に置いた。正の字に似た、けれど、ところどころ崩れた印が、いくつも並んでいた。

「鐘は、ふつうだよ。朝課、昼。数も、長さも、いつもどおり」

「じゃあ、これは」

「鐘じゃない数だ」テオは、崩れた印を、指でなぞった。「言葉のとちゅうで、だれかが止まった回。だれかの名前が、出てこなかった回。きのう、ぜんぶ数えてって、言ったろ」

「……いくつ」

「朝から、十九」

 十九。

 リディアは、その数を、口の中で、ころがした。けさの衛兵が、ひとつ。盆の女が、三つ。それだけでも、もう、四つだ。

「ふえてる」テオは言った。「朝より、昼。昼より、夕方。鐘が鳴るたびに、すこしずつ」

「鐘が、鳴るたびに」

「うん。鐘のあとが、いちばん多い。それから――」

 テオは、紙の、はしを指した。崩れた印が、いくつか、かたまっている場所。

「ここ。鐘楼に近い部屋ほど、多い。遠い部屋は、少ない。きれいに、そうなってる」

 名前が落ちる回数に、地図がある。

 その地図の、まんなかに、鐘がある。

「テオ。こわく、ないの」

 聞いてから、ずるい問いだと、思った。こわいと言わせて、安心したいだけかもしれない。

「こわい、って、どういうことか、まだ、わかってない」テオは、すこし考えてから、言った。「それに、僕は、忘れないから。だれが、だれを忘れても、僕だけは。だから、数える役は、僕がいいんだ」

 眠そうで、淡々として、こわがっていない。

 その、こわがっていないことが、いちばん、こわかった。鐘楼の地図の上で、ひとり、印だけを、見ているこの子も、いつか、印のほうに、なるのかもしれない。

 そのとき、夕の鐘が鳴った。

 太く、深い音が、聖域の上を、ゆっくり渡っていく。窓の格子が、かすかに、ふるえた。

 とくり、と。

 胸の石が、ひとつ、脈を打った。

 リディアは、襟の上から、手を当てた。一度きり。それから、石は、また、ただ冷たいだけのものに、戻った。

 鐘の尾が、空から、消えていく。

「来るよ」テオが、小さく言った。「いつものが。鐘の尾が消えてから、しばらくして」

 三人は、黙った。

 待った。

 来た。

 遠くで、ことり、と。

 鐘とは、呼べない、小さな音。打った、というより、触った、みたいな。テオの言ったとおりだった。

「鐘楼の、ほうから」テオが言った。「きのうも、おとといも、おなじ方角だ」

 石は、こたえなかった。

 こたえないのに、リディアの中の、石ではない場所が、ざわついた。鐘の奥に眠るという、もうひとつの石。呼び合うのよ、とセラフィナは言った。

 いま、だれかが、その片割れに、触れている。

 ことり、と、また、鳴った。

 さっきより、近い。

 鐘楼からでは、なかった。

 部屋のろうそくの炎が、すっと、細くなった。

 風は、ない。窓の格子は、動いていない。それなのに、炎は、見つめられた者のように、身をすくめて、細くなった。

 母が、窓から、離れた。

「リディア。テオ。こっちへ」

 町を出てから、何度か聞いた声だった。刃の形の光を出す、すこし前の、声。

 廊下の、衛兵の足音が、しなくなった。

 立っているはずの場所から、衣ずれも、息も、しない。扉の外が、急に、遠くなった。

 扉の下の、細いすきまから、廊下の灯りが、もれている。

 その灯りを、影が、ひとすじ、横切った。

 足音は、しなかった。

 声がした。

 扉ごしなのに、すぐ耳もとのようだった。乾いて、低い、歌の終わりに似た声。

「名は、火だ」

 リディアは、動けなかった。

「口から、口へ、移してきた火だ。呼ぶ者がいなくなれば、消える。だれにも覚えられていない火は――はじめから、燃えていなかったのと、おなじ」

 その声が、何を探しているのか、わからなかった。

 わたしの名前なのか。

 壁の奥で、毎日鳴っている、もうひとつの石なのか。

 声は、どちらも、ほしがっているように、聞こえた。

 影が、扉のすきまから、入ってきた。

 煙のように。水のように。床の灯りの上を、ひとすじ、伸びてくる。形は、なかった。ただ、影の濃いところに、ふたつ、灯りを返さない点があった。目の、あるべき場所に。

 母の手が、上がった。

 白い光が、刃の形に、集まる。

「下がりなさい、――」

 母の声が、止まった。

 リディアと、もうひとり。下がらせようとした、その名が、母の口から、出てこなかった。

 母は、もう一度、口を開いた。テオを見て。きのう、自分の名を添えて、帳面に書かせた、あの少年を、まっすぐ見て。

 それでも、名が、出てこない。

 テオは、長椅子に、すわっていた。

 そこに、いた。

 いるのに、その名が、母の口から、こぼれ落ちていく。

 リディアは、テオを、呼ぼうとした。

「テ……」

 声が、のどで、止まった。

 名前が、出てこない。

 すぐそこに、いる。眠そうな顔で、紙きれを持って、こちらを見ている。それなのに、その人を呼ぶ二文字が、のどの奥で、形を、なくしていく。

 忘れられるのは、慣れていた。

 忘れるのが、こんなに、こわいとは、知らなかった。

 目の前の人が、すこしずつ、遠くなる。手を伸ばせば、届くのに。名前のほうが、先に、消えていく。落とされる側の痛みは、知っていた。落とす側の痛みは、これが、はじめてだった。

 影が、すべってくる。テオの、足もとへ。

 外せば。

 その考えが、ふいに、胸の底から、浮き上がってきた。

 いま、石を外せば。あの夜のように、ぜんぶ、見える。影の芯も。名前を持っていく、その手も。見えれば、止められる。撃てば、消せる。

 手が、襟元へ、動きかけた。

 止めた。

 外せば、見えるけれど――戻したあと、忘れられるのは、こんどは、テオの名前じゃ、すまない。みんなの名前が、もう、こんなに、薄い。

 リディアは、卓の手帳を、つかんだ。

 炭の、六つの名前。

 声に出した。のどが、つかえても、構わず、一字ずつ、押し出した。

「ユアン。ネリ。メル」

 知っている名前が、口の形を、思い出させる。

「お母さん」

 母が、こちらを、見た。

「リディア」

 自分の名前を、自分で、呼んだ。ゆうべ書いた、六つ目。

 耳の奥で、ゆうべの祈りが、よみがえった。――あなたの名が、呼ばれつづけますように。

 祈っている場合では、なかった。

 呼べ。呼びつづけろ。

「テオ」

 出た。

 のどの奥で、形をなくしかけていた二文字が、炭の字の濃さのまま、口から、出た。

「テオ。そこに、いるよね」

「いるよ」テオが言った。「ずっと、いる」

 母の口も、戻った。

「テオ。下がって」

 言えた母の手から、白い光が、刃になって、影へ、走った。

 影が、ほどけて、避ける。

 その、ほどけた影が、向きを、変えた。

 テオから、リディアへ。

 半分、消えかけた娘へ。いちばん、たやすく消せるはずの、薄い娘へ。

 影の、目のない目が、リディアの名を、探した。

 探して――

 止まった。

 つかむものが、ないように。つかんでも、手から、こぼれていくように。

「……お前は」

 声に、はじめて、戸惑いが、混じった。

 リディアにも、わからなかった。なぜ、自分の名前は、出ていかないのか。みんなのは、あんなに、たやすく、落ちたのに。

 わからないまま、リディアは、口を、開いた。

 待つのは、やめだ。

「わたしは、リディア」

 声は、震えていた。それでも、言った。

「リディア・アークライト。ここに、いる」

 ゆうべ、手帳に書いた名前を、こんどは、影に、突きつけた。

 母の、二つ目の光が、影の、灯りを返さない点を、横から、打った。

 影が、ちぢんだ。煙が、扉のすきまへ、引いていく。来たときと、おなじ速さで。

 ことり、と、遠くで、鐘が、ひとつ。

 それきり、廊下は、静かになった。

 しばらく、だれも、動かなかった。

 ろうそくの炎が、もとの高さへ、戻っていく。

 廊下で、衛兵の足音が、また、聞こえはじめた。何ごとも、なかったように。たぶん、本人たちは、何が起きたかも、覚えていない。

 覚えていないことが、起きたことの、証だった。

 テオが、紙きれを、卓に、広げた。

 炭で、もうひとつ、印を、足そうとして――手を、止めた。

「二十。……いや」

 ペンの先を、宙に、浮かせたまま。

「君のところで、止まった。だから、十九のまま、かな」

 リディアは、答えなかった。答えられる種類の、問いでは、なかった。

 母は、扉の前に、立っていた。

「あれは、本気では、なかったわ」

 母が、低く、言った。

「数を、確かめに来たのよ。この壁の中で、名前が、どれだけ落とせるか。――どこに、いちばん大きな石が、あるか」

「鐘」リディアは言った。

 母は、うなずかなかった。否定も、しなかった。

 それが、答えだった。

「お母さん。あれは、わたしを、連れていこうとは、しなかった」

 夜営の夜と、おなじだ、と思った。爪は、体に届く距離だったのに、鎖だけを、切っていった。あの追っ手も。今夜の影も。手を伸ばせば、届いたのに、リディアそのものは、つかまなかった。

「数えに来ただけ、なら」リディアは、続けた。「本気を出す日が、別に、あるってこと」

 母は、しばらく、黙っていた。

「……賢いのは、お父さん似ね」

 ほめ言葉のはずなのに、母の声は、沈んでいた。本気を出す日が来ると、娘が、もう、わかってしまっている。それを、母は、よろこべないのだ。

 その夜、テオは、長椅子で、眠ってしまった。

 数えるのに、つかれたのだろう。何日も、鐘と、名前と、変なことを、ぜんぶ、数えていた。寝顔は、ふだんの、眠そうな顔と、見分けが、つかなかった。

 母は、扉のそばで、目を、開けたままだった。

 リディアは、高い窓のそばへ、行った。

 格子の外に、王都の夜が、ひろがっている。

 胸の石は、いつもどおり、冷たかった。

 外したかった、と思った。

 影に向かって、たしかに、外したいと、思った。あの夜、馬が逃げて、鎖を切られて、外れてしまったときとは、ちがう。あれは、事故だった。こんどは、自分から、外したいと、思ったのだ。

 それが、影よりも、すこし、こわかった。

 丘の、いちばん高いところで、鐘楼の、金の屋根が、月を、にぶく返していた。

 その屋根の上を、黒い点が、ひとつ、動いた。

 鳥では、なかった。

 鳥は、壁の外にいる。越えれば、知られるから。

 その点は、壁の、内側にいた。

 金の屋根の上を、ゆっくりと、鐘の口のほうへ、降りていく。

 だれにも、知られずに。