名喰いの影
朝の北翼は、静かだった。
静けさにも、種類がある。
きのうまでの静けさは、大勢が息をひそめている静けさだった。けさのは、ちがう。人はいる。足音もする。それなのに、その足音が、廊下のなかばで、行き先を忘れたように、止まる。
リディアは、寝台に起き上がったまま、止まる音を、いくつも聞いていた。
数える癖は、きのうテオに頼んだときから、自分にも、うつっていた。
扉の外で、衛兵の声がした。
「おい。北の端の見回りは、だれが立ってた」
「……おまえだろう」
「おれは、こっちだ」
短い間。
「じゃあ、北の端は、だれだ」
「……」
ふたりとも、笑わなかった。きのうの夜番は、笑って流していた。疲れてるな、と。けさは、流せる者が、いなかった。
朝の盆を運んできた下働きの女は、扉を、三つ、まちがえた。
札を見て、部屋の前まで来て、それから、盆を抱えたまま、廊下のまんなかで、立ちつくす。札に書かれた名と、その向こうにいるはずの人とが、女のなかで、つながらないのだ。
「あの……ここ、どなたの、お部屋でしたか」
リディアが戸口から顔を出すと、女は、ほっとした顔になった。それから、すぐに、その顔も、あいまいになった。リディアの顔を見ても、つなぐ先が、ないのだ。
いつものことだ、と思おうとして、ちがう、と思い直した。
いつものは、わたしだけが、忘れられる。
けさは、みんなが、みんなを、忘れかけている。
盆を受け取ると、女は、何度も頭を下げて、来た方へ、戻っていった。途中で、また、足が止まった。自分が、どこから来たのかも、あいまいになったらしい。
忘れられることなら、リディアは、だれよりも知っている。
名前を飛ばされる。班分けで余る。配られる紙が、一枚足りない。その痛みの形なら、目をつぶっても、なぞれる。
でも、いま起きているのは、それでは、なかった。
わたしが、忘れられるのではない。
みんなが、おたがいを、忘れていく。たったひとつ、自分が得意だと思っていたことが、いま、町じゅうの――いや、聖域じゅうの人に、うつっている。得意なことが、うつる。それが、いちばん、いやだった。
母は、もう起きていた。窓ぎわに立って、高い格子の外を、見ている。
「眠れた?」リディアは聞いた。
「壁が、いっぱいあるから」
ゆうべのリディアの言葉を、母が、そのまま返した。
けれど、笑っては、いなかった。
「お母さん。外に、何か」
「鳥が、いないの」母は言った。「壁の外にも、けさは、いない」
二羽の黒い鳥は、王都に入る前から、壁の外で、円を描いていた。越えれば知られる、と母は言った。見張るだけで、入ってはこない鳥だった。
その鳥が、けさは、いない。
「いなくなったの?」
「越えたのかも、しれないわね」
母は、それ以上、言わなかった。
リディアは、卓の上の、父の手帳を、引き寄せた。
六つの名前が、炭で、そこにある。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。そして、ゆうべ書いた、六つ目。
自分の名前を、自分で書いた手は、まだ、その字の濃さを、覚えていた。
けさは、その手で、もうひとつ、数えることにした。
だれかが、だれかの名前を、落とした回を。
テオが来たのは、日が傾いてからだった。
夕食の盆を、また自分で運んできた。空いた手に、炭で線を引いた紙きれを、はさんでいる。
「数えた」
すわるなり、テオは、紙を卓に置いた。正の字に似た、けれど、ところどころ崩れた印が、いくつも並んでいた。
「鐘は、ふつうだよ。朝課、昼。数も、長さも、いつもどおり」
「じゃあ、これは」
「鐘じゃない数だ」テオは、崩れた印を、指でなぞった。「言葉のとちゅうで、だれかが止まった回。だれかの名前が、出てこなかった回。きのう、ぜんぶ数えてって、言ったろ」
「……いくつ」
「朝から、十九」
十九。
リディアは、その数を、口の中で、ころがした。けさの衛兵が、ひとつ。盆の女が、三つ。それだけでも、もう、四つだ。
「ふえてる」テオは言った。「朝より、昼。昼より、夕方。鐘が鳴るたびに、すこしずつ」
「鐘が、鳴るたびに」
「うん。鐘のあとが、いちばん多い。それから――」
テオは、紙の、はしを指した。崩れた印が、いくつか、かたまっている場所。
「ここ。鐘楼に近い部屋ほど、多い。遠い部屋は、少ない。きれいに、そうなってる」
名前が落ちる回数に、地図がある。
その地図の、まんなかに、鐘がある。
「テオ。こわく、ないの」
聞いてから、ずるい問いだと、思った。こわいと言わせて、安心したいだけかもしれない。
「こわい、って、どういうことか、まだ、わかってない」テオは、すこし考えてから、言った。「それに、僕は、忘れないから。だれが、だれを忘れても、僕だけは。だから、数える役は、僕がいいんだ」
眠そうで、淡々として、こわがっていない。
その、こわがっていないことが、いちばん、こわかった。鐘楼の地図の上で、ひとり、印だけを、見ているこの子も、いつか、印のほうに、なるのかもしれない。
そのとき、夕の鐘が鳴った。
太く、深い音が、聖域の上を、ゆっくり渡っていく。窓の格子が、かすかに、ふるえた。
とくり、と。
胸の石が、ひとつ、脈を打った。
リディアは、襟の上から、手を当てた。一度きり。それから、石は、また、ただ冷たいだけのものに、戻った。
鐘の尾が、空から、消えていく。
「来るよ」テオが、小さく言った。「いつものが。鐘の尾が消えてから、しばらくして」
三人は、黙った。
待った。
来た。
遠くで、ことり、と。
鐘とは、呼べない、小さな音。打った、というより、触った、みたいな。テオの言ったとおりだった。
「鐘楼の、ほうから」テオが言った。「きのうも、おとといも、おなじ方角だ」
石は、こたえなかった。
こたえないのに、リディアの中の、石ではない場所が、ざわついた。鐘の奥に眠るという、もうひとつの石。呼び合うのよ、とセラフィナは言った。
いま、だれかが、その片割れに、触れている。
ことり、と、また、鳴った。
さっきより、近い。
鐘楼からでは、なかった。
部屋のろうそくの炎が、すっと、細くなった。
風は、ない。窓の格子は、動いていない。それなのに、炎は、見つめられた者のように、身をすくめて、細くなった。
母が、窓から、離れた。
「リディア。テオ。こっちへ」
町を出てから、何度か聞いた声だった。刃の形の光を出す、すこし前の、声。
廊下の、衛兵の足音が、しなくなった。
立っているはずの場所から、衣ずれも、息も、しない。扉の外が、急に、遠くなった。
扉の下の、細いすきまから、廊下の灯りが、もれている。
その灯りを、影が、ひとすじ、横切った。
足音は、しなかった。
声がした。
扉ごしなのに、すぐ耳もとのようだった。乾いて、低い、歌の終わりに似た声。
「名は、火だ」
リディアは、動けなかった。
「口から、口へ、移してきた火だ。呼ぶ者がいなくなれば、消える。だれにも覚えられていない火は――はじめから、燃えていなかったのと、おなじ」
その声が、何を探しているのか、わからなかった。
わたしの名前なのか。
壁の奥で、毎日鳴っている、もうひとつの石なのか。
声は、どちらも、ほしがっているように、聞こえた。
影が、扉のすきまから、入ってきた。
煙のように。水のように。床の灯りの上を、ひとすじ、伸びてくる。形は、なかった。ただ、影の濃いところに、ふたつ、灯りを返さない点があった。目の、あるべき場所に。
母の手が、上がった。
白い光が、刃の形に、集まる。
「下がりなさい、――」
母の声が、止まった。
リディアと、もうひとり。下がらせようとした、その名が、母の口から、出てこなかった。
母は、もう一度、口を開いた。テオを見て。きのう、自分の名を添えて、帳面に書かせた、あの少年を、まっすぐ見て。
それでも、名が、出てこない。
テオは、長椅子に、すわっていた。
そこに、いた。
いるのに、その名が、母の口から、こぼれ落ちていく。
リディアは、テオを、呼ぼうとした。
「テ……」
声が、のどで、止まった。
名前が、出てこない。
すぐそこに、いる。眠そうな顔で、紙きれを持って、こちらを見ている。それなのに、その人を呼ぶ二文字が、のどの奥で、形を、なくしていく。
忘れられるのは、慣れていた。
忘れるのが、こんなに、こわいとは、知らなかった。
目の前の人が、すこしずつ、遠くなる。手を伸ばせば、届くのに。名前のほうが、先に、消えていく。落とされる側の痛みは、知っていた。落とす側の痛みは、これが、はじめてだった。
影が、すべってくる。テオの、足もとへ。
外せば。
その考えが、ふいに、胸の底から、浮き上がってきた。
いま、石を外せば。あの夜のように、ぜんぶ、見える。影の芯も。名前を持っていく、その手も。見えれば、止められる。撃てば、消せる。
手が、襟元へ、動きかけた。
止めた。
外せば、見えるけれど――戻したあと、忘れられるのは、こんどは、テオの名前じゃ、すまない。みんなの名前が、もう、こんなに、薄い。
リディアは、卓の手帳を、つかんだ。
炭の、六つの名前。
声に出した。のどが、つかえても、構わず、一字ずつ、押し出した。
「ユアン。ネリ。メル」
知っている名前が、口の形を、思い出させる。
「お母さん」
母が、こちらを、見た。
「リディア」
自分の名前を、自分で、呼んだ。ゆうべ書いた、六つ目。
耳の奥で、ゆうべの祈りが、よみがえった。――あなたの名が、呼ばれつづけますように。
祈っている場合では、なかった。
呼べ。呼びつづけろ。
「テオ」
出た。
のどの奥で、形をなくしかけていた二文字が、炭の字の濃さのまま、口から、出た。
「テオ。そこに、いるよね」
「いるよ」テオが言った。「ずっと、いる」
母の口も、戻った。
「テオ。下がって」
言えた母の手から、白い光が、刃になって、影へ、走った。
影が、ほどけて、避ける。
その、ほどけた影が、向きを、変えた。
テオから、リディアへ。
半分、消えかけた娘へ。いちばん、たやすく消せるはずの、薄い娘へ。
影の、目のない目が、リディアの名を、探した。
探して――
止まった。
つかむものが、ないように。つかんでも、手から、こぼれていくように。
「……お前は」
声に、はじめて、戸惑いが、混じった。
リディアにも、わからなかった。なぜ、自分の名前は、出ていかないのか。みんなのは、あんなに、たやすく、落ちたのに。
わからないまま、リディアは、口を、開いた。
待つのは、やめだ。
「わたしは、リディア」
声は、震えていた。それでも、言った。
「リディア・アークライト。ここに、いる」
ゆうべ、手帳に書いた名前を、こんどは、影に、突きつけた。
母の、二つ目の光が、影の、灯りを返さない点を、横から、打った。
影が、ちぢんだ。煙が、扉のすきまへ、引いていく。来たときと、おなじ速さで。
ことり、と、遠くで、鐘が、ひとつ。
それきり、廊下は、静かになった。
しばらく、だれも、動かなかった。
ろうそくの炎が、もとの高さへ、戻っていく。
廊下で、衛兵の足音が、また、聞こえはじめた。何ごとも、なかったように。たぶん、本人たちは、何が起きたかも、覚えていない。
覚えていないことが、起きたことの、証だった。
テオが、紙きれを、卓に、広げた。
炭で、もうひとつ、印を、足そうとして――手を、止めた。
「二十。……いや」
ペンの先を、宙に、浮かせたまま。
「君のところで、止まった。だから、十九のまま、かな」
リディアは、答えなかった。答えられる種類の、問いでは、なかった。
母は、扉の前に、立っていた。
「あれは、本気では、なかったわ」
母が、低く、言った。
「数を、確かめに来たのよ。この壁の中で、名前が、どれだけ落とせるか。――どこに、いちばん大きな石が、あるか」
「鐘」リディアは言った。
母は、うなずかなかった。否定も、しなかった。
それが、答えだった。
「お母さん。あれは、わたしを、連れていこうとは、しなかった」
夜営の夜と、おなじだ、と思った。爪は、体に届く距離だったのに、鎖だけを、切っていった。あの追っ手も。今夜の影も。手を伸ばせば、届いたのに、リディアそのものは、つかまなかった。
「数えに来ただけ、なら」リディアは、続けた。「本気を出す日が、別に、あるってこと」
母は、しばらく、黙っていた。
「……賢いのは、お父さん似ね」
ほめ言葉のはずなのに、母の声は、沈んでいた。本気を出す日が来ると、娘が、もう、わかってしまっている。それを、母は、よろこべないのだ。
その夜、テオは、長椅子で、眠ってしまった。
数えるのに、つかれたのだろう。何日も、鐘と、名前と、変なことを、ぜんぶ、数えていた。寝顔は、ふだんの、眠そうな顔と、見分けが、つかなかった。
母は、扉のそばで、目を、開けたままだった。
リディアは、高い窓のそばへ、行った。
格子の外に、王都の夜が、ひろがっている。
胸の石は、いつもどおり、冷たかった。
外したかった、と思った。
影に向かって、たしかに、外したいと、思った。あの夜、馬が逃げて、鎖を切られて、外れてしまったときとは、ちがう。あれは、事故だった。こんどは、自分から、外したいと、思ったのだ。
それが、影よりも、すこし、こわかった。
丘の、いちばん高いところで、鐘楼の、金の屋根が、月を、にぶく返していた。
その屋根の上を、黒い点が、ひとつ、動いた。
鳥では、なかった。
鳥は、壁の外にいる。越えれば、知られるから。
その点は、壁の、内側にいた。
金の屋根の上を、ゆっくりと、鐘の口のほうへ、降りていく。
だれにも、知られずに。