大魔法使いの娘
第8話

大司教セラフィナ

朝課の鐘が鳴り終わらないうちに、迎えは来た。

 きのうの、灰色の尼だった。

「お支度がよろしければ、ご案内いたします」

 テオは、呼ばれていなかった。

「僕は、留守番」

 テオは、寝癖のついた頭のまま、ひらひらと手を振った。

 母は、旅の埃を払った外套をまとい、髪を結い直していた。出がけに、ひとつだけ、リディアの襟元へ手を伸ばす。石のかたちが服の上に浮き出ないように、合わせ目を直した。それだけだった。行きましょう、とも、こわがらなくていい、とも、言わなかった。

 廊下へ出るとき、朝課の鐘の尾が、まだ空に残っていた。

 その尾が消えぎわ、胸の奥で、とくり、とひとつ鳴った。

 ゆうべの夕の鐘で、ひとつ。いまので、ふたつ。

 気のせいでは、もう、すまされない数だった。

 リディアは、戸口を振り返った。

「テオ。お願いがある。鐘が鳴ったら、数えてて」

「鐘を?」

「鐘と、それから、変なことがあったら、ぜんぶ」

「いいよ。数は、嘘をつかないから」

 北翼の白い廊下を下り、渡り廊下をひとつ越えると、空気が変わった。

 石が、古くなった。

 床は木に変わり、まんなかだけ、すりへって色が薄い。何千人ぶんの足が、そこを歩いたのだ。壁のくぼみで太いろうそくが燃えて、蜜蝋の、すこし甘い匂いがする。どこか遠くで、低い歌が終わりかけていた。

 すれちがう人たちは、灰色や焦げ茶の衣で、目を伏せ、小さく礼をして過ぎていく。

 誰も、こちらの人数を数えなかった。

 書面も、杖も、出てこなかった。

 それだけのことで、こんなに歩きやすくなるなんて。

 尼は、小さな木の扉の前で足を止めた。

「大司教さまが、お待ちです」

 謁見、と聞いて、リディアは、玉座のような部屋を思い描いていた。高い天井。長い絨毯。遠くの椅子に、小さく見える偉い人。

 ちがった。

 部屋は、せまかった。

 書きもの机と、すりきれた長椅子。棚には、背の割れた本が押し合っている。窓辺に小さな円卓があって、椅子が三つ、もう並べてあった。卓の上の茶器から、湯気が立っている。

 窓辺の椅子から、小さなおばあさんが立ち上がった。

 白い髪。丸まった背中。袖口に、ほつれを繕った跡。

「リディア」

 名前が、いちばん先に来た。

 おばあさんは――大司教セラフィナは、歩み寄って、リディアの両手を取った。乾いた、あたたかい手だった。

「よく来たわね。長い道を、よく、無事で」

 用意してきたあいさつは、ぜんぶ、どこかへ行ってしまった。

「……はい」

 それだけ言うのが、やっとだった。

「眠れた? あの部屋、石が冷えるでしょう」

「毛布が、厚かったので」

「朝は?」

「パンを、食べました」

「そう。よかった」

 わたしは、いま、朝ごはんの話をしている。

 量られても、書かれてもいない。

 セラフィナは、母のほうへ顔を向けた。

「久しいわね、エレノア」

「ご無沙汰を、いたしました」

「老けたでしょう、わたくし」

「いいえ」

「嘘のへたなのは、変わらないのね」

 母が、わずかに目を伏せた。言い返さない母を、リディアは、はじめて見た。

 茶は、セラフィナが手ずから注いだ。注ぎ口が、かたかたと小さく鳴る。年のせいよ、と笑いながら、それでもこぼさずに、三つの碗を満たした。

「総長の書面は、わたくしのところにも来ました」

 すわるなり、セラフィナは言った。声が世間話のままだったから、意味のほうが、一拍おくれて追いついた。

「検めの水晶が、曇ったそうね」

 リディアの手が、碗の手前で止まった。

「魔術院はね、水晶に訊くのよ。わたくしは、あなたに訊くわ。――リディア。あなたは、自分の胸の石のことを、どこまで知っているの」

 ごまかすことも、できたのかもしれない。

 でも、この人は、わたしに訊いてくれている。水晶にでも、母にでもなく。

「……むかしの戦争の、わるいものの、かけらを、封じていること」

 ひとつずつ、言葉を選んだ。

「外れると、わたしの力があふれること。戻すと、まわりが、わたしを忘れること。それから、たぶん、わたしが、その……」

 器、という言葉は、のどに引っかかって、出てこなかった。

 セラフィナは、急かさなかった。

「じゅうぶんよ」

 それから、静かに続けた。

「では、その石が、どこから来たかは?」

 どこから。

 考えたことが、なかった。物心ついたときには、もう胸にあった。母がくれた、お守りだった。来た場所なんて――

 こと、と音がした。

 母が、碗を卓に戻した音だった。

「エレノア。わたくしの口から話しても、いいのだけれど」

「待ってください」

 言ったのは、リディアだった。自分でも、おどろくほど早く。

「お母さんの口から、聞きたい」

 母は、すぐには話さなかった。

 窓の外を見て、それから、リディアを見た。隠しごとをする人の目では、なかった。隠しごとを、ひとつ、手放す人の目だった。

「環は、ここにあったの」

 声は、ふだんの母より、すこし低かった。

「この丘の、いちばん深いところよ。戦いのあと、あれを三つに分けて、人の目の届かない場所へ、ひとつずつ封じた。そのひとつが、あなたの石」

 母は、一度、口を閉じた。

「わたしは、それを、ここから持ち出した。許しは、得ていないわ。誰の許しも」

 それから、言い直した。

「持ち出した、では、ないわね。――盗んだのよ」

 白暁の魔女が。

 お守りよ、と言って、これをわたしの首に掛けた手が。

 盗んだ。

 手の中の碗は熱いままなのに、その熱が、指まで届かなくなっていた。

 北の杭。赤い目の追っ手。あれから逃げる旅だと、思っていた。ちがった。母はずっと前から、人間からも逃げていたのだ。盗んだものを、娘の胸の上に隠したまま。

「どうして」

 声が、勝手に出た。

「どうして、そんなこと」

 母は、答えなかった。

 知っている沈黙だった。台所の沈黙。夜の馬車の沈黙。「今は言えない」の形をした、あの沈黙。

 ただ、今日はひとつだけ、ちがった。

 沈黙のあいだじゅう、母は、リディアから目をそらさなかった。

「責めるために、呼んだのではないのよ」

 セラフィナが言った。

「あのとき、わたくしは、追っ手を出させなかった。総長は、ちがう考えだったけれど。……長いあいだ黙っていたのだから、わたくしも、同罪ね」

 茶を一口飲んで、なんでもないことのように、つけ足す。

「総長は、いまでも言うわ。石は、あるべき場所へ、と。――あの人の言う『あるべき場所』にね、リディア。あなたの席は、ないの」

 そのとき、鐘が鳴った。

 朝のおわりを告げる、太く、深い音。窓の格子が、かすかにふるえる。

 とくり。

 胸の奥で、石が、ひとつ脈を打った。

 リディアは、襟の上から手で押さえた。

 黙っていることも、できた。でも、黙っていれば、いつかまた誰かが杖をかざして、勝手に調べて、帳面の小さな字にするのだろう。それなら、自分の口で言うほうがいい。

「いま、鳴りました」

 声に出した。

「この石。鐘が鳴ると、ここが、一度だけ、跳ねるんです。きのうの夕方から数えて、これで三度目」

 母が、顔ごと、こちらを向いた。

 知らなかったのだ。

 セラフィナは、おどろかなかった。

 目を閉じた。長い、祈りに似たまばたきだった。

「……呼び合うのよ」

「呼び合う?」

「あの鐘にはね、リディア。あなたの石の、兄弟が眠っているの」

 セラフィナの目が、窓の外へ向いた。丘のいちばん高いところで、鐘楼の金色の屋根が光っている。

「三つに分けたうちの、ふたつ目。記憶の核、と呼ばれているわ」

 禁書庫の図が、よみがえった。

 三つの器。ひとつは、わたし。ひとつは、墨で消されていた。そして、もうひとつ。

 わからなかったもうひとつが、王都のまんなかで、毎日、鳴っている。

「……こわく、ないんですか」

 聞いてしまってから、子どもみたいな問いだと思った。

「街の、まんなかですよ」

 セラフィナは、碗を置いた。

「こわいわよ」

 あっさりと、言った。

「だから、祈るの。毎朝、毎晩、あの鐘の下で。何百年ぶんの祈りを上から塗り重ねて、蓋にするの。祈りはね、守るためにあるのよ」

 それから、ほとんど同じ声のまま、つけ足した。

「けれど、守るためには、ときどき、扉を閉じなければならない」

 リディアは、北翼の扉を思い出した。

 外側にしか、鍵のない扉。

「……あの部屋の鍵も、ですか」

 口に出てしまったものは、引っ込めなかった。

 セラフィナは、笑わなかった。ごまかしも、しなかった。

「あれは、魔術院のやり方よ。わたくしのやり方では、ないわ。――でもね、リディア。わたくしは、あなたのために門を開けてあげられる人間でも、ないの。閉じる側の人間なのよ。若いころから、ずっと」

 あたたかい手の人が、それを言った。

 奥の見えないにこやかさより、ずっと正直だった。

 セラフィナは、茶器の蓋を、音を立てずに閉じた。

 帰りぎわ、セラフィナは、もう一度リディアの両手を取った。

「また、いらっしゃい。お茶だけでも。今度は、石の話ではなくて、あなたの話をしましょう」

 それから、節のついた古い言葉を、低く唱えた。

「――あなたの名が、呼ばれつづけますように」

 顔を上げて、すこしだけ笑う。

「古い祈りよ。むかしの人は、知っていたのね。それがいちばん、失われやすいものだと」

 帰りの渡り廊下は、来たときより長く感じた。

 尼は、気をきかせたのか、数歩先を歩いている。中庭で、細い木が一本、風に揺れていた。

「……怒って、いいのよ」

 母が、先に言った。

「盗んだ人に、守られてたんだね、わたし」

 口に出してから、ちがう、と思った。言いたいのは、そんな嫌味じゃない。

 リディアは、足を止めた。

「ひとつだけ、教えて」

 母も、止まった。

「盗んだこと、後悔してる?」

「いいえ」

 間が、なかった。

 ああ、と思った。

 理由は、今日も聞けなかった。でも、これだけはわかってしまった。もう一度おなじ夜が来ても、母は、もう一度おなじものを盗む。それが母の選んだ守り方で、わたしはまだ、その値段のぜんぶを知らない。

「いつか、ぜんぶ話して」

 リディアは言った。

「待ってるんじゃなくて、わたしから、聞きに行く。何度でも。……だから、そのときは、ちゃんと負けて」

 母は、息だけで笑った。

「手ごわいわね、あなた」

「誰の娘だと思ってるの」

 言えた。

 言ったら、胸の上の石が、すこしだけ軽くなった気がした。気のせいだ。気のせいでも、よかった。

 それから、母は、歩く速さをすこしだけゆるめた。

 リディアが、ちょうど隣に並べるくらいに。

 夕方、テオが部屋に来た。

 扉は、日のあるうちは、まだ開く。夕食の盆を、わざわざ自分で運んできた。

「鐘、数えたよ」

 すわるなり、言った。

「朝課の鐘。昼の鐘。それから――」

 テオは、指を一本立てた。

「夕の鐘のあとに、ひとつ、変なのが鳴った」

「変なの?」

「鐘の尾が消えて、しばらくしてから、小さいのが、ひとつ。打った、というより、触った、みたいな音。きのうは、なかった」

 夕の鐘なら、リディアも聞いた。石は今日も、ひとつ鳴って、それきり静かだった。

 でも、遅れて鳴ったという小さな音には――石は、こたえなかった。

「聞きまちがいじゃ、なくて?」

「かもしれない。でも、僕、耳はいいんだ」テオは、パンをちぎった。「それに、頼まれたからね。ぜんぶ、って」

 鐘に、誰かが、触った。

 あの鐘に何が眠っているか、今朝、聞いたばかりだった。

 言おうか、迷った。聞けばテオはきっと、いつもの淡々とした顔で、いちばんいやなところを言い当てる。

 今夜は、それを聞きたくなかった。

「テオ。明日も、数えてて」

「いいよ」

 理由を、テオは聞かなかった。そういうところが、ありがたかった。

 夜更け、扉の外で、衛兵の交代の声がした。

「あとを頼む。……ええと」

 短い沈黙。

「どうしました」

「いや。……おまえの名は、なんだったか」

「は?」

「名だ、おまえの。……いや、いい。疲れてるな、おれは」

 低い笑いと、遠ざかる靴音。それきり、廊下は静かになった。

 リディアは、寝台の上で、起き上がっていた。

 メルの茶屋で、ひとつ足りなかった椀を、思い出した。

 あの忘れ方なら、誰よりも知っている。

 でも、いま忘れられたのは、わたしの名前じゃなかった。

 石は、胸の上で、いつもどおり冷たいままだった。わたしのせいで起きる忘れ方は、わたしの名前に起きる。廊下のあれは、ちがう。

 ちがうなら――なんだ。

 リディアは、卓の手帳を引き寄せた。

 炭で、五つの名前を、上から濃くなぞる。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。

 それから、すこし迷って、六つ目を書いた。

 ――リディア。

 自分の名前を、自分で書くのは、はじめてだった。

 書いた字は、ほかの五つとおなじ濃さで、そこにあった。

 高い窓の外で、王都の夜は静かだった。

 耳の奥で、昼間の祈りが、もう一度聞こえた。

 ――あなたの名が、呼ばれつづけますように。