大司教セラフィナ
朝課の鐘が鳴り終わらないうちに、迎えは来た。
きのうの、灰色の尼だった。
「お支度がよろしければ、ご案内いたします」
テオは、呼ばれていなかった。
「僕は、留守番」
テオは、寝癖のついた頭のまま、ひらひらと手を振った。
母は、旅の埃を払った外套をまとい、髪を結い直していた。出がけに、ひとつだけ、リディアの襟元へ手を伸ばす。石のかたちが服の上に浮き出ないように、合わせ目を直した。それだけだった。行きましょう、とも、こわがらなくていい、とも、言わなかった。
廊下へ出るとき、朝課の鐘の尾が、まだ空に残っていた。
その尾が消えぎわ、胸の奥で、とくり、とひとつ鳴った。
ゆうべの夕の鐘で、ひとつ。いまので、ふたつ。
気のせいでは、もう、すまされない数だった。
リディアは、戸口を振り返った。
「テオ。お願いがある。鐘が鳴ったら、数えてて」
「鐘を?」
「鐘と、それから、変なことがあったら、ぜんぶ」
「いいよ。数は、嘘をつかないから」
北翼の白い廊下を下り、渡り廊下をひとつ越えると、空気が変わった。
石が、古くなった。
床は木に変わり、まんなかだけ、すりへって色が薄い。何千人ぶんの足が、そこを歩いたのだ。壁のくぼみで太いろうそくが燃えて、蜜蝋の、すこし甘い匂いがする。どこか遠くで、低い歌が終わりかけていた。
すれちがう人たちは、灰色や焦げ茶の衣で、目を伏せ、小さく礼をして過ぎていく。
誰も、こちらの人数を数えなかった。
書面も、杖も、出てこなかった。
それだけのことで、こんなに歩きやすくなるなんて。
尼は、小さな木の扉の前で足を止めた。
「大司教さまが、お待ちです」
謁見、と聞いて、リディアは、玉座のような部屋を思い描いていた。高い天井。長い絨毯。遠くの椅子に、小さく見える偉い人。
ちがった。
部屋は、せまかった。
書きもの机と、すりきれた長椅子。棚には、背の割れた本が押し合っている。窓辺に小さな円卓があって、椅子が三つ、もう並べてあった。卓の上の茶器から、湯気が立っている。
窓辺の椅子から、小さなおばあさんが立ち上がった。
白い髪。丸まった背中。袖口に、ほつれを繕った跡。
「リディア」
名前が、いちばん先に来た。
おばあさんは――大司教セラフィナは、歩み寄って、リディアの両手を取った。乾いた、あたたかい手だった。
「よく来たわね。長い道を、よく、無事で」
用意してきたあいさつは、ぜんぶ、どこかへ行ってしまった。
「……はい」
それだけ言うのが、やっとだった。
「眠れた? あの部屋、石が冷えるでしょう」
「毛布が、厚かったので」
「朝は?」
「パンを、食べました」
「そう。よかった」
わたしは、いま、朝ごはんの話をしている。
量られても、書かれてもいない。
セラフィナは、母のほうへ顔を向けた。
「久しいわね、エレノア」
「ご無沙汰を、いたしました」
「老けたでしょう、わたくし」
「いいえ」
「嘘のへたなのは、変わらないのね」
母が、わずかに目を伏せた。言い返さない母を、リディアは、はじめて見た。
茶は、セラフィナが手ずから注いだ。注ぎ口が、かたかたと小さく鳴る。年のせいよ、と笑いながら、それでもこぼさずに、三つの碗を満たした。
「総長の書面は、わたくしのところにも来ました」
すわるなり、セラフィナは言った。声が世間話のままだったから、意味のほうが、一拍おくれて追いついた。
「検めの水晶が、曇ったそうね」
リディアの手が、碗の手前で止まった。
「魔術院はね、水晶に訊くのよ。わたくしは、あなたに訊くわ。――リディア。あなたは、自分の胸の石のことを、どこまで知っているの」
ごまかすことも、できたのかもしれない。
でも、この人は、わたしに訊いてくれている。水晶にでも、母にでもなく。
「……むかしの戦争の、わるいものの、かけらを、封じていること」
ひとつずつ、言葉を選んだ。
「外れると、わたしの力があふれること。戻すと、まわりが、わたしを忘れること。それから、たぶん、わたしが、その……」
器、という言葉は、のどに引っかかって、出てこなかった。
セラフィナは、急かさなかった。
「じゅうぶんよ」
それから、静かに続けた。
「では、その石が、どこから来たかは?」
どこから。
考えたことが、なかった。物心ついたときには、もう胸にあった。母がくれた、お守りだった。来た場所なんて――
こと、と音がした。
母が、碗を卓に戻した音だった。
「エレノア。わたくしの口から話しても、いいのだけれど」
「待ってください」
言ったのは、リディアだった。自分でも、おどろくほど早く。
「お母さんの口から、聞きたい」
母は、すぐには話さなかった。
窓の外を見て、それから、リディアを見た。隠しごとをする人の目では、なかった。隠しごとを、ひとつ、手放す人の目だった。
「環は、ここにあったの」
声は、ふだんの母より、すこし低かった。
「この丘の、いちばん深いところよ。戦いのあと、あれを三つに分けて、人の目の届かない場所へ、ひとつずつ封じた。そのひとつが、あなたの石」
母は、一度、口を閉じた。
「わたしは、それを、ここから持ち出した。許しは、得ていないわ。誰の許しも」
それから、言い直した。
「持ち出した、では、ないわね。――盗んだのよ」
白暁の魔女が。
お守りよ、と言って、これをわたしの首に掛けた手が。
盗んだ。
手の中の碗は熱いままなのに、その熱が、指まで届かなくなっていた。
北の杭。赤い目の追っ手。あれから逃げる旅だと、思っていた。ちがった。母はずっと前から、人間からも逃げていたのだ。盗んだものを、娘の胸の上に隠したまま。
「どうして」
声が、勝手に出た。
「どうして、そんなこと」
母は、答えなかった。
知っている沈黙だった。台所の沈黙。夜の馬車の沈黙。「今は言えない」の形をした、あの沈黙。
ただ、今日はひとつだけ、ちがった。
沈黙のあいだじゅう、母は、リディアから目をそらさなかった。
「責めるために、呼んだのではないのよ」
セラフィナが言った。
「あのとき、わたくしは、追っ手を出させなかった。総長は、ちがう考えだったけれど。……長いあいだ黙っていたのだから、わたくしも、同罪ね」
茶を一口飲んで、なんでもないことのように、つけ足す。
「総長は、いまでも言うわ。石は、あるべき場所へ、と。――あの人の言う『あるべき場所』にね、リディア。あなたの席は、ないの」
そのとき、鐘が鳴った。
朝のおわりを告げる、太く、深い音。窓の格子が、かすかにふるえる。
とくり。
胸の奥で、石が、ひとつ脈を打った。
リディアは、襟の上から手で押さえた。
黙っていることも、できた。でも、黙っていれば、いつかまた誰かが杖をかざして、勝手に調べて、帳面の小さな字にするのだろう。それなら、自分の口で言うほうがいい。
「いま、鳴りました」
声に出した。
「この石。鐘が鳴ると、ここが、一度だけ、跳ねるんです。きのうの夕方から数えて、これで三度目」
母が、顔ごと、こちらを向いた。
知らなかったのだ。
セラフィナは、おどろかなかった。
目を閉じた。長い、祈りに似たまばたきだった。
「……呼び合うのよ」
「呼び合う?」
「あの鐘にはね、リディア。あなたの石の、兄弟が眠っているの」
セラフィナの目が、窓の外へ向いた。丘のいちばん高いところで、鐘楼の金色の屋根が光っている。
「三つに分けたうちの、ふたつ目。記憶の核、と呼ばれているわ」
禁書庫の図が、よみがえった。
三つの器。ひとつは、わたし。ひとつは、墨で消されていた。そして、もうひとつ。
わからなかったもうひとつが、王都のまんなかで、毎日、鳴っている。
「……こわく、ないんですか」
聞いてしまってから、子どもみたいな問いだと思った。
「街の、まんなかですよ」
セラフィナは、碗を置いた。
「こわいわよ」
あっさりと、言った。
「だから、祈るの。毎朝、毎晩、あの鐘の下で。何百年ぶんの祈りを上から塗り重ねて、蓋にするの。祈りはね、守るためにあるのよ」
それから、ほとんど同じ声のまま、つけ足した。
「けれど、守るためには、ときどき、扉を閉じなければならない」
リディアは、北翼の扉を思い出した。
外側にしか、鍵のない扉。
「……あの部屋の鍵も、ですか」
口に出てしまったものは、引っ込めなかった。
セラフィナは、笑わなかった。ごまかしも、しなかった。
「あれは、魔術院のやり方よ。わたくしのやり方では、ないわ。――でもね、リディア。わたくしは、あなたのために門を開けてあげられる人間でも、ないの。閉じる側の人間なのよ。若いころから、ずっと」
あたたかい手の人が、それを言った。
奥の見えないにこやかさより、ずっと正直だった。
セラフィナは、茶器の蓋を、音を立てずに閉じた。
帰りぎわ、セラフィナは、もう一度リディアの両手を取った。
「また、いらっしゃい。お茶だけでも。今度は、石の話ではなくて、あなたの話をしましょう」
それから、節のついた古い言葉を、低く唱えた。
「――あなたの名が、呼ばれつづけますように」
顔を上げて、すこしだけ笑う。
「古い祈りよ。むかしの人は、知っていたのね。それがいちばん、失われやすいものだと」
帰りの渡り廊下は、来たときより長く感じた。
尼は、気をきかせたのか、数歩先を歩いている。中庭で、細い木が一本、風に揺れていた。
「……怒って、いいのよ」
母が、先に言った。
「盗んだ人に、守られてたんだね、わたし」
口に出してから、ちがう、と思った。言いたいのは、そんな嫌味じゃない。
リディアは、足を止めた。
「ひとつだけ、教えて」
母も、止まった。
「盗んだこと、後悔してる?」
「いいえ」
間が、なかった。
ああ、と思った。
理由は、今日も聞けなかった。でも、これだけはわかってしまった。もう一度おなじ夜が来ても、母は、もう一度おなじものを盗む。それが母の選んだ守り方で、わたしはまだ、その値段のぜんぶを知らない。
「いつか、ぜんぶ話して」
リディアは言った。
「待ってるんじゃなくて、わたしから、聞きに行く。何度でも。……だから、そのときは、ちゃんと負けて」
母は、息だけで笑った。
「手ごわいわね、あなた」
「誰の娘だと思ってるの」
言えた。
言ったら、胸の上の石が、すこしだけ軽くなった気がした。気のせいだ。気のせいでも、よかった。
それから、母は、歩く速さをすこしだけゆるめた。
リディアが、ちょうど隣に並べるくらいに。
夕方、テオが部屋に来た。
扉は、日のあるうちは、まだ開く。夕食の盆を、わざわざ自分で運んできた。
「鐘、数えたよ」
すわるなり、言った。
「朝課の鐘。昼の鐘。それから――」
テオは、指を一本立てた。
「夕の鐘のあとに、ひとつ、変なのが鳴った」
「変なの?」
「鐘の尾が消えて、しばらくしてから、小さいのが、ひとつ。打った、というより、触った、みたいな音。きのうは、なかった」
夕の鐘なら、リディアも聞いた。石は今日も、ひとつ鳴って、それきり静かだった。
でも、遅れて鳴ったという小さな音には――石は、こたえなかった。
「聞きまちがいじゃ、なくて?」
「かもしれない。でも、僕、耳はいいんだ」テオは、パンをちぎった。「それに、頼まれたからね。ぜんぶ、って」
鐘に、誰かが、触った。
あの鐘に何が眠っているか、今朝、聞いたばかりだった。
言おうか、迷った。聞けばテオはきっと、いつもの淡々とした顔で、いちばんいやなところを言い当てる。
今夜は、それを聞きたくなかった。
「テオ。明日も、数えてて」
「いいよ」
理由を、テオは聞かなかった。そういうところが、ありがたかった。
夜更け、扉の外で、衛兵の交代の声がした。
「あとを頼む。……ええと」
短い沈黙。
「どうしました」
「いや。……おまえの名は、なんだったか」
「は?」
「名だ、おまえの。……いや、いい。疲れてるな、おれは」
低い笑いと、遠ざかる靴音。それきり、廊下は静かになった。
リディアは、寝台の上で、起き上がっていた。
メルの茶屋で、ひとつ足りなかった椀を、思い出した。
あの忘れ方なら、誰よりも知っている。
でも、いま忘れられたのは、わたしの名前じゃなかった。
石は、胸の上で、いつもどおり冷たいままだった。わたしのせいで起きる忘れ方は、わたしの名前に起きる。廊下のあれは、ちがう。
ちがうなら――なんだ。
リディアは、卓の手帳を引き寄せた。
炭で、五つの名前を、上から濃くなぞる。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。
それから、すこし迷って、六つ目を書いた。
――リディア。
自分の名前を、自分で書くのは、はじめてだった。
書いた字は、ほかの五つとおなじ濃さで、そこにあった。
高い窓の外で、王都の夜は静かだった。
耳の奥で、昼間の祈りが、もう一度聞こえた。
――あなたの名が、呼ばれつづけますように。