大魔法使いの娘
第7話

王都の門

王都は、音から、はじまった。

 丘をひとつ越えたところで、まだ街は見えないのに、低いうなりのようなものが、風に乗って届いた。人の声と、車輪と、蹄と、市場の鐘。数えきれないものが混ざって、ひとつの音になっている。

 関所を抜けてから、ふた晩が過ぎていた。

 ふた晩とも、何ごともなかった。何ごともない夜が、どれだけ長いものか、リディアは、もう知っている。

「見えるわよ」

 御者台の母が、言った。

 リディアは、母の隣に座っていた。あの夜営からあと、幌の中でひとりで揺られているのが、なんとなく、いやだったのだ。

 街道が、丘を下る。

 白が、見えた。

 白い壁だった。朝の光を受けて、丘の端から端まで、続いている。町の壁とも、関所の壁とも、比べものにならない。壁の向こうには、塔が、いくつも立っていた。いちばん高い塔の先で、金色の何かが光っている。

「中央教会の、鐘楼よ」母が言った。「あの鐘は、王都のどこにいても、聞こえるの」

 いくつもの街道が、合わさりながら、門へ流れこんでいく。荷馬車。家畜の群れ。背負い籠の行商人。川のようだった。

 リディアは、街道のうしろへ、耳を澄ました。

 あの湿った足音は、夜明け前から、聞こえなくなっていた。

 消えたのではない、と思う。あれは、消えない。ただ、どこかで止まって、こちらを見ている。離れてくれたのに、背中は、かえって落ち着かなかった。

 空には、二羽。

 黒い鳥は、白い壁が見えたあたりで、高く昇り、それきり、ついてこなくなった。

「この壁は、越えないんだ」テオが、幌から首を出して言った。「関所のは、翼も動かさずに越えたのに」

「越えないんじゃなくて」母は、前を見たまま言った。「越えれば、知られるのよ。ここの結界は、町のものとは、桁が違うから」

 じゃあ、安全だ。

 そう思えば、いいはずだった。

 門は、開いていた。人と荷の列が、吸い込まれていく。並ぶのだろうと思っていたら、母は、列の脇へ馬車を寄せた。

 門の影に、白い長衣の一団が、立っていた。

 待っていたのだ。わたしたちを。

 先頭の男が進み出て、頭を下げた。深い礼なのに、急いで覚えた礼に見えた。

「エレノア・アークライト様。魔術院より、お迎えに上がりました」

 男は、書面を広げた。

「総長アデルバート様のご指示により、ご一行を聖域までご案内いたします」

 母は、すぐには答えなかった。

「……出迎えなど、頼んでいないわ」

「街道の検問所より、報せが参りますので」

 男は、にこやかに言った。にこやかさの奥が、見えない人だった。

 ああ、そうか、とリディアは思った。

 関所で、手形を見せた。あのときから、もう、知られていたのだ。

 門をくぐるとき、リディアは、振り返った。

 白い壁の上の空で、黒い点がふたつ、円を描いていた。

 中には、入ってこない。

 ただ、覚えている、というように。

 王都の中は、声で、できていた。

 売り声。呼び声。子どもの泣き声。石畳の上を、これだけの人が歩いているのに、誰ともぶつからないのが、ふしぎだった。

 生まれてから今日までに見た人の数を、リディアは、この一刻で追い越した気がした。

 そして、その誰ひとり、リディアを見なかった。

 いつものことだ。町でも、そうだった。

 かわりに、人々は、母を見た。

 白い長衣の一団と、その真ん中を行く灰色の髪の女。通りのどこかで、誰かがささやくと、ささやきは、荷車より速く通りを走った。

「……白暁の、魔女?」

「帰ってきたのか」

「ほんものか」

 窓が開く。子どもが屋根に登る。みんなが、伸び上がって、母を見ようとする。

 その視線は、母の隣のリディアの上を、すべって、落ちた。何十も、何百も。ひとつ残らず。

 母は、前だけを見て歩いていた。歩き方で、わかった。母はこの街を知っている。そして、好きではないのだ。

 ただ、先頭を行く白い長衣たちは、違った。

 彼らは、振り返るたび、列を確かめ、人数を数えた。

 数えられている。数え落とされては、いない。なのに、町で忘れられていたときより、肌が、寒い。

 大通りを抜けると、街の音が薄くなった。白い石塀が続き、その奥の丘が、まるごと白い建物だった。教会の鐘楼。魔術院の塔。それを囲む、たかい塀。

「聖域です」先頭の男が言った。「以後、院の定めに従っていただきます」

 聖域の門は、王都の門より、小さくて、厚かった。

 門の前で、男が、書面を読み上げた。

「『第三封印具の移送、ならびに保管について』――」

 移送。

 保管。

 荷物に使う言葉だ、ということくらい、リディアにもわかった。

「『封印具ならびに保持者の身柄は、魔術院北翼にて、これを保護する。検めののち――』」

「お待ちなさい」

 母の声が、書面を途中で切った。

「保持者、ではないわ。娘の名は、リディア。リディア・アークライトよ」

 男は、頭を下げた。

「記載のままに、読み上げております」

 下げた頭は、すぐに上がった。

「続けます。『検めののち、入域を許す』。――検め師」

 長衣の列から、小柄な老人が出てきた。手に、透きとおった石のついた短い杖を持っている。

 老人は、リディアの前に立った。

 目が合う、と思った。

 合わなかった。

 老人の目は、リディアの顔の、すこし下を見ていた。襟元を。服の下の、石のあるあたりを。ずっと、そこだけを。

「失礼」

 杖の先が、胸元へ伸びてくる。

 体がこわばった。その杖の先を、横から、母の手が押さえた。

「触れないで」

 静かな声だった。けれど、列のぜんぶが、止まった。

「それは、石の検めでしょう。娘の体に触れていい、とは、どこにも書いていないはずよ」

「……規程ですので」と、男が言った。

「では、規程のほうを、直しなさい」

 男と老人が、目を見交わした。長い沈黙では、なかった。けれど、母の言葉がそのまま通った沈黙でも、なかった。

「――翳すのみ、と」男が言った。「検めは、省けません。総長のご指示ですので」

 母は、手を引いた。

 それが、母に通せる、ぎりぎりの線なのだとわかった。

 老人が、杖を、リディアの胸の手前にかざした。

 透きとおった石が、すっと曇って、灰色になった。

 老人の手が、止まった。

 白い長衣たちの列に、小さなざわめきが走って、すぐに消えた。何が見えたのか、リディアにはわからない。聞ける空気でも、なかった。

「……記録します」老人は、書面に何かを書きつけた。なんと書いたのかは、見えなかった。

「総長には、本日中に」と、先頭の男が老人に言った。

「は。お報せいたします」

 わたしの何かが、いま、量られて、書かれて、知らない人のところへ運ばれていく。

 名前は、一度も、呼ばれなかった。

 北翼の入り口は、石の広間だった。

 長い机がひとつ。その向こうに、書記がひとり座っている。壁ぎわには、槍を持った衛兵がふたり。視線はまっすぐ前を向いたまま、動かない。

 書記は、分厚い帳面を開いて、羽根ペンを構えた。

「入域の登録を。――まず、エレノア・アークライト様」

 母が答え、書記が書く。

「次。同行の……」書記は、帳面と手元の書面を見比べた。「保持者」

「リディアです」

 声は、自分で思ったより、はっきり出た。

 ゆうべの夜営の、あの叫びにくらべれば、たやすかった。机の向こうの書記は、夜の闇より、ずっと近い。

「リディア・アークライト。それが、わたしの名前です。そう書いてください」

 書記が、顔を上げた。

 一瞬、ほんとうに一瞬だけ、書記の目が、リディアの目と合った。

「……備考欄に、記しておきます」

 目は、すぐ帳面へ戻った。羽根ペンが動き、保持者、という字の下に、小さな字が添えられた。遠目には、読めなかった。

 備考欄。

 わたしの名前は、この街では、備考なのだ。

「次。そちらの少年」

 書記のペンが、テオを指した。

「同行者の登録は、ご親族か、身元の保証ある方に限られます。あなたは」

「テオ。ただの、同級生」

「ご親族では、ない。保証人は」

「いない」テオは、あっさり言った。「僕、ここまでかな」

 あんまりあっさりしていたから、本気で引き返す気なのだとわかった。テオは、いつもそうだ。あるものは、ある。ないものは、ない。それで、怒らない。

 書記がうなずいて、ペンを動かしかけた。

 帳面から、テオの名前が、書かれないまま、こぼれ落ちようとしていた。

 メルの椀を、思い出した。数えそこなわれた、椀の数を。

 あのとき、わたしは、椀を数え直してとは、言えなかった。

 リディアは、机に一歩、近づいた。

「待ってください」

 書記の手が、止まる。

「テオは、わたしが連れてきました。わたしの同行者です。わたしが、保証します」

「……保持者に、保証人の資格は」

「リディアです」

 もう一度、言った。

「名前が、あります。名前で、保証します」

 広間が、すこし静かになった。衛兵の片方が、首だけこちらへ向けたのが見えた。

 書記は、困った顔で、白い長衣の男を見た。男が、何か言いかける。

 その前に、母が、リディアの隣に並んだ。

 前では、なかった。

 隣だった。

「娘の言葉に、わたしの名を添えます」母は言った。「それで、書けるでしょう」

 書記は、しばらくペンの先を見ていた。

 それから、書いた。

 テオ。リディア・アークライトの同行者。保証、同上。

「……君のおかげで、入れた」廊下へ歩きながら、テオが小声で言った。「変だね。見つけたのは、僕が先なのに」

「うん」

「今の、よかったよ。夜営のより、聞きやすかった」

 テオなりの、ほめ言葉だった。

 あてがわれた部屋は、北翼の三階にあった。

 白い壁。白い寝台がふたつ。卓と、椅子。窓はたかい場所にひとつだけで、細い鉄の格子がはまっていた。テオは、隣の小部屋に通された。

 扉の鍵は、外側についていた。

 内側には、なかった。

「ご保護のためです」案内の男は言った。「廊下には、夜のあいだも衛兵が立ちます。ご安心を」

 扉が閉まると、母は、寝台のはしに腰を下ろした。

 町を出てから、はじめて見る、すわった母だった。

「お母さん。すこし、眠って」

 リディアは言った。

「ここには、壁が、いっぱいあるから」

 母は、目を閉じたまま、すこしだけ笑った。

「……そうね。壁だけは、いっぱいあるわね」

 壁の中の何かについては、言わなかった。

 言わないことが、答えのようなものだった。

 しばらくして、母の息が、深くなった。

 すわったまま、眠っていた。

 町を出てから、四日。御者台で目だけ閉じる夜を、眠りと呼ぶなら呼べるのかもしれない、と思っていた。呼べないのだと、いま、わかった。これが、眠りだ。肩から力が抜けて、手が、手綱の形を忘れている。

 リディアは、毛布を一枚取って、母の肩にかけた。

 起きなかった。

 世界を救った人が、鍵を外から掛けられる部屋で、ようやく眠っている。守るものが、毛布一枚しかない。それでも、掛けるのは、わたしでいたかった。

 リディアは、卓の上に、父の手帳を開いた。

 ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。

 五つの名前は、ゆうべと変わらずに、そこにあった。炭の字は、すこしかすれてきている。

 ふところの炭で、薄くなった字を、上からなぞった。ユアンの「ア」。メルの「ル」。一画ずつ。急がずに。

 ここでは、わたしが、名前を書く側だ。

 備考欄に、ではなく。

 そのとき、鐘が鳴った。

 太い、深い音だった。三つ数えるほどの長さで、ひとつ。床と、壁と、窓の格子が、かすかにふるえる。王都のぜんぶの上を、音がゆっくり渡っていく。

 胸の石が。

 とくり、と。

 ひとつだけ、脈を打った。

 リディアは、襟の上から石を押さえた。冷たい。いつもの冷たさだった。気のせい――にしては、はっきりしていた。けれど、鐘の音の尾が消えると、石はもう、ただの石だった。

 母は、鐘でも、起きなかった。

 扉が叩かれたのは、その直後だった。

 顔を上げると、母の目は、もう開いていた。鐘では起きずに、扉で起きる。そういう眠り方しか、できない人なのだ。

 灰色の衣の、年とった尼が立っていた。白い長衣たちとは、まとう空気が違った。腰が低くて、目が、ちゃんと人の顔を見る目だった。

「大司教さまの、お使いです」

 尼は、母とリディアを順番に見て、言った。

「セラフィナさまが、明日の朝、お会いになります。――エレノアさまと」

 それから尼は、リディアに向き直った。

「リディアさまと」

 リディアは、まばたきをした。

「……いま、名前で、呼びました」

「はい?」

「わたしを、名前で」

 尼は、ふしぎそうな顔をして、それから、すこし笑った。

「大司教さまが、そう仰せでしたので。――石ではなく、娘さんに会いたいのだ、と」

 尼が下がり、廊下の足音が遠ざかったあとも、リディアは、扉を見ていた。

 この街に入って、はじめて、名前を呼ばれた。

 会いたい、と言われた。石では、なくて。

 うれしい、はずだった。半分は、たぶん、ほんとうにうれしかった。

 でも、もう半分が、ゆっくり冷えていく。

 会ったこともない人が、どうして、石と娘を、分けて呼べるのだろう。

 この石が何であるかを、母のほかに知っている人が、この壁の中にいる。

 明日の朝、その人に会う。

 高い窓の格子の向こうで、暮れた空が、藍色になっていた。

 鐘の音は、もう、しなかった。