大魔法使いの娘
第6話

外れた力

関所は、思っていたより、大きかった。

 灰色の石壁が、街道をまたいで、左右の丘の上まで続いている。壁の上には見張りの塔。槍を持った兵の影が、小さく、ふたつ。

 壁だ、と思った。

 町の結界とは、違う。目に見えて、手で叩ける、石の壁。

 リディアは、幌の隙間から、首が痛くなるまで、それを見上げた。

 今朝から、頭の片隅で、ずっと鳴っている音がある。湿った、あの足音。どれだけ離れても、消えない音。

 その音が、この壁の手前で止まる絵を、つい、思い描いてしまう。

 門の前には、短い列ができていた。

 穀物を積んだ荷馬車。羊を追う親子。行商人の背負い籠。みんな、あたりまえの顔で、あたりまえの用事で、壁をくぐっていく。

 すこし前まで、リディアも、あちら側だった。

 配られる紙が一枚足りないことだけが悩みの、ただの、見つけてもらえない生徒だった。

「手形を」

 門の兵が、気だるそうに言った。

 母が、御者台から、革の包みを渡す。兵は中の紙をたしかめ、幌の中を、ちらりと覗いた。

「乗っているのは」

「娘と、その友人がひとり」

 兵の目が、テオの上で止まった。

 それから、リディアのいるあたりを、すっと通り過ぎた。

 通り過ぎて、戻ってこなかった。

「行っていい」

 馬車が、門をくぐる。

 分厚い壁の影が、幌の上を、ゆっくり流れていった。冷たい影だった。その冷たさが、今は、すこし、頼もしかった。

 石の壁。見張りの塔。槍。

 ここから先は、王都の側だ。

「ねえ、テオ」リディアは、小声で言った。「あれ、ここで止まるかな」

 テオは、すぐには答えなかった。

 幌の隙間から、空を見ていた。

「……壁はね、人を止めるためのものだよ」

「うん」

「あれ、人かな」

 リディアも、空を見た。

 黒い鳥が、ちょうど、壁を越えていくところだった。

 呼び止める声は、なかった。槍も、動かなかった。見張りの兵は、ふたりとも、街道だけを見ていた。

 翼は、一度も、動かなかった。

 関所から半日走って、日が落ちた。

 街道をすこし外れた窪地で、馬を休ませることになった。三方を低い丘に囲まれていて、風が弱い。

 火は、焚かなかった。

「焚いても、いいのよ」と、母は言った。「あれは、目で探さない。火を消したところで、意味はないの」

「じゃあ、どうして焚かないの」

「……煙の匂いが、服につくから」

 たぶん、本当の理由ではない。意味がないと知っていて、それでも何かを、しないではいられないのだ。

 その気持ちは、わかる気がした。リディアは、それ以上、聞かなかった。

 固いパンと水だけの夕食のあと、テオが最初の見張りに立った。岩の上に座り、眠そうな顔のまま、暗い街道のほうを向いている。

「テオは、眠くないの」

「眠いよ。ずっと眠い」テオは、街道から目を離さずに言った。「でも、眠いのと、眠るのは、別だから」

 母は、馬車の反対側で、丘の稜線を見ていた。

 町を出てから、母が横になったところを、リディアは、一度も見ていない。御者台で、手綱を握ったまま、目だけ閉じる。それを眠りと呼ぶなら、呼べるのかもしれない。

 燭台もない、火もない夜の中で、母の輪郭は、ただの疲れた女の人のものだった。

 世界を救った人の背中は、思っていたより、細い。

 リディアは、毛布にくるまって、父の手帳を開いた。

 月明かりで、炭の字が、かろうじて読める。

 ユアン。ネリ。メル。テオ。

 今朝書いたばかりなのに、ずっと前に書いた字に見えた。指で、ひとつずつ、なぞる。

 ふと、五つ目を書こうかと、思った。

 お母さん。

 炭を持った手が、止まる。

 書かなくても、忘れるわけがない。わたしが忘れるわけも、お母さんが、わたしを見失うわけも。

 リディアは、手帳を閉じて、毛布の中で目をつぶった。

 眠りに落ちる、その手前だった。

 音が、消えた。

 遠くで鳴りつづけていた、あの湿った音が――止まった。

 虫の声も、やんでいた。

 テオが、岩を滑り降りる音。

 母は、もう、立っていた。

「リディア。起きて、馬車の陰へ」

「お母さん――」

「来るわ」

 夜が、静かすぎた。

 風の音さえ、遠慮しているようだった。リディアは、毛布を肩にかけたまま、馬車の車輪のそばにうずくまった。テオが、その隣に来る。

 どこから来るの、と聞きたかった。声を出すのが、怖かった。

 待つ時間が、長かった。来るとわかってから来るまでの時間が、こんなに長いものだとは、知らなかった。

 最初に動いたのは、馬だった。

 杭につないだ馬が首を振り、前脚で地面を掻く。白目が、夜の中で光った。

 次に、匂いが来た。

 濡れた土の、すこし甘い、あの匂い。

 丘の上に、赤い点が、ふたつ、ともった。

 家の塀の外で見たときより、高い。――立ち上がっている。

 母の右手から、白い光が走った。

 今夜の光は、糸ではなかった。刃の形をして、丘の斜面を薙ぎ、影を割った。

 割れたはずの影が、煙のようにほどけて、別の場所で、また立つ。

 速い。

 家の前では、結界の外から押して、試していただけだったのだ。

 今夜は、壁がない。夜の野は、あれの庭だった。

「伏せて!」

 母の声が飛ぶ。リディアはテオと並んで、馬車の陰に身を伏せた。

 光と影が、窪地の中で、何度もぶつかる。白い光が走るたび、あたりが昼になり、すぐに、前より深い闇が戻った。

 馬が、悲鳴を上げた。

 夜のあいだ馬車から外して、杭につないであった馬だ。怯えきって棹立ちになり、革紐ごと杭を引き抜いた。馬車の脇をすり抜けて駆け出す勢いで、引きずられた杭が幌の骨を打ち、馬車が大きく揺れる。

 リディアは、よろけた。

 陰から、半歩、体がはみ出した。

 馬が、闇のほうへ駆けていく。

「馬を!」

 リディアが言うより早く、テオが駆け出していた。窪地の先へ、逃げる馬のあとを追って。

 その半歩と、その一瞬を、あれは、見逃さなかった。

 影が母の光の下をくぐって、低く来た。

 速いというより、近かった。気づいたときには、目の前に、赤い点があった。

 濡れた匂いが、顔にかかる。

 爪が、胸元を、かすめた。

 痛みは、なかった。

 かわりに、ちり、と細い金属の音がした。

 鎖が切れた音だと、わかったときには、黒い石が、胸を離れて宙にあった。

 リディアの手が勝手に伸びて、それをつかんだ。

 握った。たしかに、握っている。肌に、触れている。

 なのに、世界が、また、あの息を吸った。

 手のひらでは、だめなのだ。胸の、いつもの場所でなければ。

 音が、遠くなる。

 かわりに、見えはじめる。

 丘の斜面を流れる魔力。土の下で眠る古い水脈。母の体の中で回っている、静かで巨大な光。テオの、小さくて、まっすぐな灯。

 そして、目の前の影の芯にある、黒く細い、飢えたもの。

 見える。

 また、見えてしまう。

 二度目なのに、慣れる気配は、すこしもなかった。体の奥から、あのあふれるものが、出口を探して押してくる。皮膚の内側を、叩かれているようだった。

 わたしという入れ物は、これには、小さすぎる。

 影は――動きを、止めていた。

 赤い点が、まばたきもせず、リディアを見ていた。

 もう、嗅ぐ必要がないのだ。夜の中で、リディアひとりが、燃えていた。丘の向こうからでも見えるだろう。もっと遠くの、もっと暗い場所にいる、何かたちからも。

 見つかっている。

 いま、世界じゅうから、見つかっている。

 手を上げれば、と、ふいに、わかってしまった。

 この押してくるものを、あの細い芯へ、すこし通すだけでいい。訓練場の騎士のように、あれは消える。音もなく。最初からいなかったみたいに。

 それで終わる。足音も。匂いも。この旅の、夜ごとの怯えも。

 手が、上がりかけた。

 その先に、テオがいた。

 影と、テオと、馬が、夜の中で重なって見えた。通したものが、どこまでを消すのか、わたしは知らない。訓練場のときも、知らないまま、思っただけで、撃っていた。

 止まって、と願っても、止まらなかったことだけを、覚えている。

 リディアは、上がりかけた右手を、左手で、押さえつけた。

 ユアン。

 胸の中で、呼んだ。

 ネリ。メル。テオ。

 炭で書いた、四つの名前。ひとつ呼ぶたび、ふくらみすぎた自分が、すこしずつ、わたしの寸法に戻ってくる。

 石を、握り直す。

 戻せば、どうなるかは、知っている。また誰かが、わたしを忘れる。この、いちばん危ない夜のまんなかで。

 戻さなければ、この火で、夜の目という目を集めつづける。

 どちらも、いやだった。

 でも、迷っていられる時間は、もう、なかった。

 リディアは、石を、胸に押し当てた。

 世界が、遠のく。

 水脈が消える。魔力の流れが消える。母の光も、テオの灯も、壁の向こうへ引いていく。

 体が、重い。

 そして。

 母の白い光が、リディアの上を、すっと、通り過ぎた。

 通り過ぎて、戻ってこなかった。

「リディア!?」

 母の声が、夜を探していた。さっきまでリディアのいた場所を。いまリディアのいる場所では、ない、ところを。

 呼ぶ声の、語尾が割れていた。世界を救った人の声が、迷子の子どもの声をしていた。

 母が。

 わたしを。

 見失っている。

 関所の兵とは、違う。茶屋の女とも、違う。世界じゅうが忘れても、最初からそこにいると知っていてくれたはずの、母が。

 怖かった。今夜のどの瞬間より、怖かった。

 でも。

 見つけてもらえるのを待つのは、やめたのだ。今朝、井戸のそばで、そう決めた。

 リディアは、息を吸った。

「ここ」

 声が、かすれた。

 小さすぎた。夜にも、届かなかった。

 いつもの声だ。言ったのに、聞こえない。呼んだのに、届かない。教室で、迷宮で、何度もそうだったように。

 ちがう。

 届かないんじゃない。届く前に、やめていたのだ。どうせ届かないと、自分で決めて。

 リディアは、足を踏ん張って、腹の底から、もう一度、声を出した。

「ここ!」

 自分の声とは、思えなかった。

「お母さん、ここ! わたしは、ここにいる!」

 白い光が、止まった。

 戻ってきた。

 母の目が、声をたどって、リディアを、つかまえた。

 その瞬間、母の光は刃から壁に変わった。リディアと影のあいだに白い壁が立ち上がり、影を、丘の上まで押し戻す。

 影は、もう、押し返してこなかった。

 赤い点が、ふっと薄れて、丘の向こうへ引いていく。

 濡れた足音が、遠ざかっていった。来たときと、同じ速さで。

 頭の上で、黒い鳥が、ひと声、鳴いた。

 この旅で初めて聞く、声だった。

 その声は、こちらへではなく、夜の遠くへ向かって、尾を引いた。

 切れた鎖は、母がつないだ。

 指先の小さな光で、輪と輪を、ひとつずつ。迷宮の夜と、同じ手つきだった。

「……自分で、戻したのね」

 母は、手を動かしたまま言った。

「うん」

「迷わなかったの」

「迷った」

 リディアは、正直に言った。

「外したままなら、あれを、たぶん、どうにかできた。でも、どこまで消えるか、わからなかったから。テオも、馬も、いたから」

 母の手が、止まった。

「それで、戻したの」

「……呼んだら、お母さんが、見つけてくれると思ったから」

 母は、しばらく、黙っていた。

 それから、つなぎ終えた鎖を、リディアの首に、かけ直した。石が、いつもの場所に収まる。いつもどおり、冷たかった。

「リディア」

「ん」

「次に外れたときも、呼びなさい」

 母の声は、静かだった。

「何度でも。わたしが何を見失っても、あなたの声だけは、聞こえるから」

 探す、とは言わなかった。見つける、とも。

 夜の向こうから、蹄の音がした。

 テオが、馬を引いて戻ってきた。革紐を握った手が、すりむけている。

「ねえ」あくびまじりに言う。「僕、いいもの聞いた」

「……なに」

「君が、自分から、ここ、って言うの。初めて聞いた」

「悪い?」

「よかった」テオは、真顔だった。「君は、いつも、いないほうの側にいたから」

 それから、テオは、すこしだけ声を落とした。

「でも、ひとつ、変だ」

「なにが」

「あれ、君を連れていこうとは、しなかった。爪は、体に届く距離だったのに、鎖だけ、切っていった」

 リディアは、胸の石に、手を当てた。

 切られた。外された。そして、あの火を、夜の隅々にまで、見せた。

 もし、それが、あれの用事だったのだとしたら。

 空が、白みはじめていた。

 車輪も、幌の骨も、折れてはいなかった。母が手綱を取り、馬車は、王都への街道に戻った。

 リディアは、揺れる幌の下で、もう一度、石に触れた。

 外れていたのは、十を数えるほどのあいだだった。

 そのあいだ、世界じゅうが、わたしを見ていた。

 戻した瞬間、母でさえ、わたしを見失った。

 ちょうどいい場所は、この石のどこにも、ついていなかった。

 リディアは、手帳を開いた。

 炭の燃えさしは、まだ、ふところにあった。

 五つ目の名前を、書く。

 ――お母さん。わたしを見失っても、声で、見つけてくれた。

 ゆうべは、書かなくてもいい名前だと、思っていた。

 そのとき、開いたページの上を、影が、よぎった。

 羽音は、ない。

 朝の低い日が、幌の隙間からページまで届いている。その光の帯を、黒いものが横切ったのだ。

 見慣れた、あの鳥の影。

 書いたばかりの、お母さん、の字が、いったん翳って、もどる。

 息をつく間もなく。

 ふたつ目の影が、同じ字の上を、よぎった。

 リディアは、ページから、目を上げられなかった。

 一羽じゃ、ない。

 二羽目は、ゆうべ、わたしが燃えた窪地のほうから、追いついてきたのだ。

 十数えるあいだの火を、夜は、覚えていた。

 戻したのに。ちゃんと、戻したのに。

 増えた目は、もう、減らない。