大魔法使いの娘
第5話

名前を呼ぶ練習

馬車は、夜どおし走った。

 幌の下は、揺れる。轍を踏むたび、骨まで揺れる。眠ろうとしても、体がいちいち起こされた。

 リディアは、膝を抱えて座っていた。

 隣で、テオが舟をこいでいる。あくびのうまい人だから、こんな揺れの中でも眠れるらしい。

 手の中に、二つ。

 片方は、破った紙。冷たい。指が、もう形を覚えている。

 もう片方は、父の手帳だった。

 家を出るとき、鞄に放り込めたのは、これだけだった。着替えも、櫛も、入れる間がなかった。それでも、手帳だけは、手が勝手に取っていた。

 革の表紙は、すり切れている。父の手の脂が、まだ残っている気がする。気のせいだと思う。父が死んだのは、もう十年も前だ。

 ページを開く間は、なかった。暗くて、読めない。

 ただ、握っていた。

 幌の隙間から、外を見る。

 星は、出ていなかった。

 黒い空の中を、もっと黒いものが、一つ、滑っていた。

 昨夜と、同じ鳥だ。羽音はしない。馬車と同じ速さで、同じ方向へ、ついてくる。

 追い払う方法を、リディアは知らない。母も、何も言わない。手綱を握ったまま、前だけを見ている。

 だから、見ないことにした。

 見ないことには、慣れている。

 空が白みはじめたころ、馬が、足を止めた。

 街道沿いの、小さな水場だった。

 井戸が一つ。その横に、葦で葺いた茶屋が建っている。荷運びの御者たちが、馬を休ませる場所らしい。煮炊きの煙が、低く流れていた。

「少し、休むわ」母が言った。「馬に、水をやらないと」

 リディアは、幌から降りた。

 足が、しびれている。地面が、まだ揺れている気がした。

 朝の空気は、冷たかった。町の朝とは、匂いが違う。土と、馬と、知らない草の匂い。

 遠くまで来たのだと、足の裏が、先に知っていた。

 テオも降りて、井戸のへりに腰かけた。眠そうな顔のまま、あたりを見ている。見張り、ということだとわかる。

 母は、馬の口に、桶をあてがっていた。

 リディアは、手持ちぶさたに、井戸のそばに立った。

「おねえちゃん」

 声がした。

 見ると、茶屋の戸口に、小さな女の子がいた。

 五つか、六つか。前掛けが、煮汁で汚れている。母親の手伝いをしているらしい。

 その子が、まっすぐにリディアを見ていた。

 リディアは、少し、戸惑った。

 まっすぐ見られることに、まだ慣れない。

「……おはよう」

「おはよう」女の子は、にっと笑った。「おねえちゃん、どこから来たの」

「遠く」

「どれくらい遠く?」

「馬車で、ひと晩」

「ふうん」女の子は、井戸のへりによじ登った。「あたし、メル。おねえちゃんは?」

 名前を、聞かれた。

 誰かに名前を聞かれるのは、ひさしぶりだった。学校では、聞かれる前に忘れられる。

「リディア」

「リディア」メルは、まねて言った。「へんな名前」

「そう?」

「うん。でも、いい名前」

 いい名前。

 ゆうべ、書庫で「環」という字を見たときには、いい名前だとは思えなかった。

 でも、メルの言い方は、何の意味も知らずに、ただ音だけを面白がっていた。

 その軽さが、すこしだけ、ありがたかった。

「メル」茶屋の中から、母親の声がした。「お湯、見てて」

「はあい」

 メルは井戸を飛び降りて、戸口へ駆けていった。

 その背中を、リディアは見送った。

 へんな名前、と言われたのに、いやな気持ちはしなかった。

 茶屋の女が、湯気の立つ椀を、盆にのせて運んできた。

 麦を煮た、簡単なものだ。それでも、温かいものは、ありがたい。

 女は、長椅子に椀を並べた。

 一つ。二つ。

 母の前と、テオの前。

 そして、そこで、手が止まった。

 女は、盆の上の、最後の椀を見た。それから、長椅子を見た。

 リディアは、母とテオのあいだに、座っている。

 ちょうど、女の正面に。

「……三人ぶんで、足りるかね」

 女が、母に言った。

 母の手が、椀をつかむ手前で、止まった。

「四人よ」母が、静かに言った。

「四人?」女は、もう一度、長椅子を見た。リディアのいるあたりを、見た。見ているのに、見えていない目だった。「ああ……すまないね。年かね。一つ、数えそこなった」

 女は、戻って、もう一つ椀を運んできた。

 悪気は、なかった。ただ、数えそこなっただけ。

 いつものことだった。

 学校で、配られる紙が一枚足りないとき。掃除当番の表から、名前が抜けているとき。誰も悪くない。だから、怒るに怒れない。

 でも、ひとつだけ、ちがった。

 さっき、メルは、リディアの名を聞いた。リディアも、答えた。すぐ、そこで。

 なのに、その母親は、椀の数すら、合わせられない。

 リディアは、椀を、両手で包んだ。

 温かい。

 この温かさだけは、たしかに、自分の前に置かれた。それだけが、頼りだった。

「前より、早いね」

 テオが、麦をすすりながら、小声で言った。

「……早い?」

「町では、しばらく話して、それから忘れてた」テオは、椀の中を見たまま言う。「今のは、話した直後だ。数える、そのあいだに、もう抜けてた」

 リディアは、答えなかった。

 言われて、気づいてしまった。

 薄くなるのが、速くなっている。

 町を出てから、というより――首飾りが、勝手に脈を打ちはじめた、あの夜から。濃くなったり、薄くなったり。そのふり幅が、大きくなっている気がする。

 母が、こちらを見ていた。

 何か言いたげに、口を開きかけて、結局、閉じた。

 麦の湯気が、母の顔の前で、ゆれた。

 休んでいるあいだに、メルが、また寄ってきた。

 今度は、手に、小さな木彫りの馬を持っている。御者の誰かが、削ってくれたものらしい。

「これ、見て」メルは、自慢げに差し出した。「うまでしょ」

「うん。上手だね」

「あたしも、おっきくなったら、馬車にのって、遠くにいくの」

「どこへ?」

「うーんとね……」メルは、首をかしげた。「わすれちゃった」

 わすれちゃった、と、メルは笑った。

 けろりと、していた。

 でも、リディアは、うまく笑い返せなかった。

 この子も、いつか、わたしを忘れる。

 いや――もう、忘れかけているのかもしれない。

 名を聞いて、いい名前だと言ってくれた、その子が。

 試したくなった。

 たしかめたく、なった。

 いやな予感ほど、たしかめずにいられない。

「メル」リディアは、しゃがんで、目の高さを合わせた。「わたしの名前、覚えてる?」

 メルは、きょとんとした。

 しばらく、リディアの顔を見ていた。

 それから、首を、横に振った。

「……だれだっけ」

 小さな声だった。

 ほんの少し前に、いい名前だと笑った、その口で。

 リディアは、しゃがんだまま、動けなかった。

 怒れたら、まだ、よかった。

 でも、メルは、ただ忘れただけだ。さっき笑ったことも、いっしょに。

 怒る相手は、どこにもいなかった。

 善いことをしても。やさしくしても。名乗っても。

 跡が、残らない。

 水に書いた字のように、すっと消える。

 いつか――と、ゆうべから何度も浮かんだ言葉が、また浮かんだ。

 いつか、誰も、わたしを思い出せなくなるんじゃないか。

 母も。テオも。ユアンも、ネリも。

 みんなが、メルみたいに、きょとんとして、だれだっけ、と言う日が、来るんじゃないか。

 その日が、思っていたより、ずっと近いのかもしれない。

 リディアは、井戸のへりに、腰を下ろした。

 膝の上で、父の手帳を、開いた。

 朝の光が、ようやく、文字を読めるくらいになっていた。

 薬草の名前。天気の読み方。眠れない子の、蜂蜜湯の作り方。

 知っている字が、並んでいる。

 ページをめくる。

 あの一行が、あった。

 ――リディアは、探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。

 何度も読んだ。暗記するほど、読んだ。

 いつも、この言葉を、こう読んでいた。

 父は、わたしを探してくれた人だ、と。

 わたしは、探される側の子だ、と。

 でも――今朝は、違って見えた。

 探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。

 これは、探す人への言葉だ。

 探される子のことを書いているけれど、書かれているのは、探す人の、心がけだ。

 毎日ちゃんと探すこと。

 父は、それを、自分への決めごとにしていた。

 待っていたんじゃない。父は、毎日、こちらから、探しに来てくれていた。

 リディアは、手帳のうしろのほうを開いた。

 白いページが、何枚か、残っている。

 父が、書ききれなかったページ。

 ふところを探って、御者が落とした、炭の燃えさしを拾った。それで書けるか、試してみる。

 手が、すこし、震えた。

 書く、ということを、誰かに見つけてもらうためにする日が来るとは、思っていなかった。

 でも、これは、見つけてもらうためじゃない。

 白いページに、リディアは、書いた。

 へたな字で。炭が、かすれる。

 ――ユアン。下がってろ、と言ったあと、無しだ、と言った。耳まで赤かった。

 ――ネリ。手が震えていた。それでも、離さないからね、と言って、握ってくれた。

 ――メル。へんな名前、でも、いい名前、と言った。木彫りの馬を、見せてくれた。

 書いた。

 忘れないように。

 いつか、わたしが、みんなを忘れる日が来ても。この字が、覚えていてくれるように。

 いつも、忘れられるのを、待っていた。見つけてもらえるのを、待っていた。

 待つのは、やめる。

 わたしが、覚える。わたしが、探す。

 炭の先が、ページの上で、止まった。

「何、書いてるの」

 テオが、いつのまにか、隣にいた。

「名前」リディアは言った。「忘れないように」

 テオは、手帳をのぞきこんだ。それから、めずらしく、すぐには茶化さなかった。

「僕のは?」

 リディアは、テオを見た。

 書いていなかった。

 なぜなら――テオのことは、忘れる気が、しなかったから。

 でも、それは、言わなかった。

 かわりに、炭を、もう一度、ページにあてた。

 ――テオ。足音が薄い。わたしの薄さに、最初に気づいた。眠そうな顔で、いっしょに来てくれた。

「これでいい?」

「字、へただね」

「初めて言われた」

「うそだ。絶対、前にも言われてる」

 へらず口なのに、とげがない。テオの言葉は、いつも、そうだった。

 リディアは、すこしだけ、笑った。

 今朝、はじめて、笑えた。

 馬に水をやり終えた母が、こちらへ来た。

 リディアの手の中の手帳を見て、母の足が、ほんの一瞬、止まった。

 父の手帳だと、すぐにわかったのだろう。

「持って、来ていたの」

「うん。これだけ」

 母は、何も言わなかった。

 ただ、その目が、すこし、やわらいだ。

 リディアは、思いきって、聞いた。聞かなければ、ずっと胸につかえる気がした。

「お母さん」

「なに」

「わたし、だんだん、薄くなってる。さっきの人、椀の数も、合わせられなかった。メルは、名前を、もう忘れた」

 母の表情が、固くなる。

「それは――」

「ねえ、お母さん」リディアは、まっすぐ、母を見た。「このまま薄くなったら、いつか、誰も、わたしを思い出せなくなるの?」

 母は、答えなかった。

 すぐに、答えなかった。

 その沈黙が、いつもの沈黙だった。知っているのに、言わない。守るために、隠す。

 リディアは、もう、その沈黙の形を、知っている。

「……そうは、させない」母が、ようやく言った。「王都に着けば、手立てがある。だから、急ぐの」

 手立て。

 また、それだ。母は、行き先を言う。理由は、言わない。

 昔だったら、それで、黙っていた。

 でも、今朝は、もう、ひとつ、わかっていた。

「お母さんは、わたしを、探してくれてるんだよね」

 母が、まばたきをした。

「……どういう、意味」

「お父さんは、毎日、わたしを探してくれてた。手帳に、そう書いてある」リディアは、ページを、指でなぞった。「お母さんは、わたしを、隠した。隠して、守ろうとした。でも、隠したものを、お母さんは、見失わなかった。ちゃんと、覚えてた。ずっと」

 母の唇が、震えた。

「だから――お母さんも、探してくれてたんだと思う。隠しながら、探してた。やり方が、お父さんと、逆だっただけで」

 母は、何も言えずに、立っていた。

 目のふちが、光っていた。

 それでも、母は、泣かなかった。泣くかわりに、リディアの髪に、手をのせた。

 いつもの、髪をなでる手だった。

 でも、今朝は、その手が、すこし、ためらっていた。

 なでるのではなく、ただ、そこにいることを、たしかめるように。

 日が、昇りきった。

 馬車に、戻る時間だった。

 リディアは、立ち上がる前に、茶屋のほうを振り返った。

 メルが、戸口で、木彫りの馬を、ひとりで走らせて遊んでいた。

 もう、リディアのことなど、覚えていない。

 リディアは、その子に、近づいた。

「メル」

 名前を、呼んだ。

 自分から、誰かの名を呼ぶのは、いつぶりだろう。いつも、呼ばれるのを、待っていた。届かない声で、呼ぶのが、怖かった。

 メルが、顔を上げた。

「だれ?」

「通りすがり」リディアは言った。「あのね、その馬、ほんとに上手だよ。遠くまで、行けるよ」

 メルは、きょとんとして、それから、にっと笑った。

「うん!」

 覚えては、もらえない。

 たぶん、馬車が見えなくなる前に、忘れる。

 それでも、いい、と思った。

 メルが忘れても、わたしが、覚えている。木彫りの馬と、いい名前、と言ってくれた声を。

 忘れられても、跡が残らなくても。

 覚える側に、立つことは、できる。

 首飾りにも、あの力にも、できないことが、ひとつだけ、あった。

 馬車が、動きだす。

 水場が、茶屋が、メルが、うしろへ流れて、小さくなっていく。

 リディアは、幌の隙間から、それを見ていた。

 メルは、一度も、こちらを見なかった。

 それでいい。

 手帳を、胸に抱く。中には、四つの名前。ユアン、ネリ、メル、テオ。へたな炭の字で、四つ。

 守りきれるかは、わからない。いつか、この字さえ、読めなくなるかもしれない。

 でも、今は、ある。

 幌の外で、母の声がした。

「リディア。昼すぎには、関所に着くわ。そこを抜ければ、王都まで、あと二日」

「うん」

 王都。

 答えがある場所。三つの器の、残りのふたつ。墨で消された、三つ目。わたしが、何なのか。

 近づいている。

 それから、リディアは、空を見た。

 黒い鳥が、まだ、ついてきていた。

 昼の光の中では、よけいに黒く見えた。羽音は、しない。同じ速さで、同じ方向へ、滑っている。

 そして、その下の、地面を。

 馬車は、もう、ずいぶん遠くまで来た。馬は、夜どおし走り、また走っている。

 なのに。

 うしろの、ずっとうしろの、街道の土の上に、濡れた足音が、まだ、あった。

 細く。長く。急がずに。

 どれだけ離れても、消えない。

 リディアは、手帳を、ぎゅっと、抱いた。

 わたしは、四つの名前を、覚えた。

 でも、あの足音は――わたしの、においを、覚えている。

 覚えられたいと願う相手には、忘れられて。

 忘れられたいと願う相手には、覚えられて。

 世界は、いつも、逆だった。

 それでも、と、リディアは思った。

 馬車は、止まらなかった。

 覚えた名前を、ひとつずつ、口の中で、呼んでみる。

 ユアン。ネリ。メル。テオ。

 呼ぶたびに、その人が、ほんの少し、近くにいる気がした。

 遠ざかっていく町と、追ってくる足音の、ちょうどあいだで。

 リディアは、はじめて、自分から、名前を呼ぶ練習を、していた。