名前を呼ぶ練習
馬車は、夜どおし走った。
幌の下は、揺れる。轍を踏むたび、骨まで揺れる。眠ろうとしても、体がいちいち起こされた。
リディアは、膝を抱えて座っていた。
隣で、テオが舟をこいでいる。あくびのうまい人だから、こんな揺れの中でも眠れるらしい。
手の中に、二つ。
片方は、破った紙。冷たい。指が、もう形を覚えている。
もう片方は、父の手帳だった。
家を出るとき、鞄に放り込めたのは、これだけだった。着替えも、櫛も、入れる間がなかった。それでも、手帳だけは、手が勝手に取っていた。
革の表紙は、すり切れている。父の手の脂が、まだ残っている気がする。気のせいだと思う。父が死んだのは、もう十年も前だ。
ページを開く間は、なかった。暗くて、読めない。
ただ、握っていた。
幌の隙間から、外を見る。
星は、出ていなかった。
黒い空の中を、もっと黒いものが、一つ、滑っていた。
昨夜と、同じ鳥だ。羽音はしない。馬車と同じ速さで、同じ方向へ、ついてくる。
追い払う方法を、リディアは知らない。母も、何も言わない。手綱を握ったまま、前だけを見ている。
だから、見ないことにした。
見ないことには、慣れている。
空が白みはじめたころ、馬が、足を止めた。
街道沿いの、小さな水場だった。
井戸が一つ。その横に、葦で葺いた茶屋が建っている。荷運びの御者たちが、馬を休ませる場所らしい。煮炊きの煙が、低く流れていた。
「少し、休むわ」母が言った。「馬に、水をやらないと」
リディアは、幌から降りた。
足が、しびれている。地面が、まだ揺れている気がした。
朝の空気は、冷たかった。町の朝とは、匂いが違う。土と、馬と、知らない草の匂い。
遠くまで来たのだと、足の裏が、先に知っていた。
テオも降りて、井戸のへりに腰かけた。眠そうな顔のまま、あたりを見ている。見張り、ということだとわかる。
母は、馬の口に、桶をあてがっていた。
リディアは、手持ちぶさたに、井戸のそばに立った。
「おねえちゃん」
声がした。
見ると、茶屋の戸口に、小さな女の子がいた。
五つか、六つか。前掛けが、煮汁で汚れている。母親の手伝いをしているらしい。
その子が、まっすぐにリディアを見ていた。
リディアは、少し、戸惑った。
まっすぐ見られることに、まだ慣れない。
「……おはよう」
「おはよう」女の子は、にっと笑った。「おねえちゃん、どこから来たの」
「遠く」
「どれくらい遠く?」
「馬車で、ひと晩」
「ふうん」女の子は、井戸のへりによじ登った。「あたし、メル。おねえちゃんは?」
名前を、聞かれた。
誰かに名前を聞かれるのは、ひさしぶりだった。学校では、聞かれる前に忘れられる。
「リディア」
「リディア」メルは、まねて言った。「へんな名前」
「そう?」
「うん。でも、いい名前」
いい名前。
ゆうべ、書庫で「環」という字を見たときには、いい名前だとは思えなかった。
でも、メルの言い方は、何の意味も知らずに、ただ音だけを面白がっていた。
その軽さが、すこしだけ、ありがたかった。
「メル」茶屋の中から、母親の声がした。「お湯、見てて」
「はあい」
メルは井戸を飛び降りて、戸口へ駆けていった。
その背中を、リディアは見送った。
へんな名前、と言われたのに、いやな気持ちはしなかった。
茶屋の女が、湯気の立つ椀を、盆にのせて運んできた。
麦を煮た、簡単なものだ。それでも、温かいものは、ありがたい。
女は、長椅子に椀を並べた。
一つ。二つ。
母の前と、テオの前。
そして、そこで、手が止まった。
女は、盆の上の、最後の椀を見た。それから、長椅子を見た。
リディアは、母とテオのあいだに、座っている。
ちょうど、女の正面に。
「……三人ぶんで、足りるかね」
女が、母に言った。
母の手が、椀をつかむ手前で、止まった。
「四人よ」母が、静かに言った。
「四人?」女は、もう一度、長椅子を見た。リディアのいるあたりを、見た。見ているのに、見えていない目だった。「ああ……すまないね。年かね。一つ、数えそこなった」
女は、戻って、もう一つ椀を運んできた。
悪気は、なかった。ただ、数えそこなっただけ。
いつものことだった。
学校で、配られる紙が一枚足りないとき。掃除当番の表から、名前が抜けているとき。誰も悪くない。だから、怒るに怒れない。
でも、ひとつだけ、ちがった。
さっき、メルは、リディアの名を聞いた。リディアも、答えた。すぐ、そこで。
なのに、その母親は、椀の数すら、合わせられない。
リディアは、椀を、両手で包んだ。
温かい。
この温かさだけは、たしかに、自分の前に置かれた。それだけが、頼りだった。
「前より、早いね」
テオが、麦をすすりながら、小声で言った。
「……早い?」
「町では、しばらく話して、それから忘れてた」テオは、椀の中を見たまま言う。「今のは、話した直後だ。数える、そのあいだに、もう抜けてた」
リディアは、答えなかった。
言われて、気づいてしまった。
薄くなるのが、速くなっている。
町を出てから、というより――首飾りが、勝手に脈を打ちはじめた、あの夜から。濃くなったり、薄くなったり。そのふり幅が、大きくなっている気がする。
母が、こちらを見ていた。
何か言いたげに、口を開きかけて、結局、閉じた。
麦の湯気が、母の顔の前で、ゆれた。
休んでいるあいだに、メルが、また寄ってきた。
今度は、手に、小さな木彫りの馬を持っている。御者の誰かが、削ってくれたものらしい。
「これ、見て」メルは、自慢げに差し出した。「うまでしょ」
「うん。上手だね」
「あたしも、おっきくなったら、馬車にのって、遠くにいくの」
「どこへ?」
「うーんとね……」メルは、首をかしげた。「わすれちゃった」
わすれちゃった、と、メルは笑った。
けろりと、していた。
でも、リディアは、うまく笑い返せなかった。
この子も、いつか、わたしを忘れる。
いや――もう、忘れかけているのかもしれない。
名を聞いて、いい名前だと言ってくれた、その子が。
試したくなった。
たしかめたく、なった。
いやな予感ほど、たしかめずにいられない。
「メル」リディアは、しゃがんで、目の高さを合わせた。「わたしの名前、覚えてる?」
メルは、きょとんとした。
しばらく、リディアの顔を見ていた。
それから、首を、横に振った。
「……だれだっけ」
小さな声だった。
ほんの少し前に、いい名前だと笑った、その口で。
リディアは、しゃがんだまま、動けなかった。
怒れたら、まだ、よかった。
でも、メルは、ただ忘れただけだ。さっき笑ったことも、いっしょに。
怒る相手は、どこにもいなかった。
善いことをしても。やさしくしても。名乗っても。
跡が、残らない。
水に書いた字のように、すっと消える。
いつか――と、ゆうべから何度も浮かんだ言葉が、また浮かんだ。
いつか、誰も、わたしを思い出せなくなるんじゃないか。
母も。テオも。ユアンも、ネリも。
みんなが、メルみたいに、きょとんとして、だれだっけ、と言う日が、来るんじゃないか。
その日が、思っていたより、ずっと近いのかもしれない。
リディアは、井戸のへりに、腰を下ろした。
膝の上で、父の手帳を、開いた。
朝の光が、ようやく、文字を読めるくらいになっていた。
薬草の名前。天気の読み方。眠れない子の、蜂蜜湯の作り方。
知っている字が、並んでいる。
ページをめくる。
あの一行が、あった。
――リディアは、探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。
何度も読んだ。暗記するほど、読んだ。
いつも、この言葉を、こう読んでいた。
父は、わたしを探してくれた人だ、と。
わたしは、探される側の子だ、と。
でも――今朝は、違って見えた。
探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。
これは、探す人への言葉だ。
探される子のことを書いているけれど、書かれているのは、探す人の、心がけだ。
毎日ちゃんと探すこと。
父は、それを、自分への決めごとにしていた。
待っていたんじゃない。父は、毎日、こちらから、探しに来てくれていた。
リディアは、手帳のうしろのほうを開いた。
白いページが、何枚か、残っている。
父が、書ききれなかったページ。
ふところを探って、御者が落とした、炭の燃えさしを拾った。それで書けるか、試してみる。
手が、すこし、震えた。
書く、ということを、誰かに見つけてもらうためにする日が来るとは、思っていなかった。
でも、これは、見つけてもらうためじゃない。
白いページに、リディアは、書いた。
へたな字で。炭が、かすれる。
――ユアン。下がってろ、と言ったあと、無しだ、と言った。耳まで赤かった。
――ネリ。手が震えていた。それでも、離さないからね、と言って、握ってくれた。
――メル。へんな名前、でも、いい名前、と言った。木彫りの馬を、見せてくれた。
書いた。
忘れないように。
いつか、わたしが、みんなを忘れる日が来ても。この字が、覚えていてくれるように。
いつも、忘れられるのを、待っていた。見つけてもらえるのを、待っていた。
待つのは、やめる。
わたしが、覚える。わたしが、探す。
炭の先が、ページの上で、止まった。
「何、書いてるの」
テオが、いつのまにか、隣にいた。
「名前」リディアは言った。「忘れないように」
テオは、手帳をのぞきこんだ。それから、めずらしく、すぐには茶化さなかった。
「僕のは?」
リディアは、テオを見た。
書いていなかった。
なぜなら――テオのことは、忘れる気が、しなかったから。
でも、それは、言わなかった。
かわりに、炭を、もう一度、ページにあてた。
――テオ。足音が薄い。わたしの薄さに、最初に気づいた。眠そうな顔で、いっしょに来てくれた。
「これでいい?」
「字、へただね」
「初めて言われた」
「うそだ。絶対、前にも言われてる」
へらず口なのに、とげがない。テオの言葉は、いつも、そうだった。
リディアは、すこしだけ、笑った。
今朝、はじめて、笑えた。
馬に水をやり終えた母が、こちらへ来た。
リディアの手の中の手帳を見て、母の足が、ほんの一瞬、止まった。
父の手帳だと、すぐにわかったのだろう。
「持って、来ていたの」
「うん。これだけ」
母は、何も言わなかった。
ただ、その目が、すこし、やわらいだ。
リディアは、思いきって、聞いた。聞かなければ、ずっと胸につかえる気がした。
「お母さん」
「なに」
「わたし、だんだん、薄くなってる。さっきの人、椀の数も、合わせられなかった。メルは、名前を、もう忘れた」
母の表情が、固くなる。
「それは――」
「ねえ、お母さん」リディアは、まっすぐ、母を見た。「このまま薄くなったら、いつか、誰も、わたしを思い出せなくなるの?」
母は、答えなかった。
すぐに、答えなかった。
その沈黙が、いつもの沈黙だった。知っているのに、言わない。守るために、隠す。
リディアは、もう、その沈黙の形を、知っている。
「……そうは、させない」母が、ようやく言った。「王都に着けば、手立てがある。だから、急ぐの」
手立て。
また、それだ。母は、行き先を言う。理由は、言わない。
昔だったら、それで、黙っていた。
でも、今朝は、もう、ひとつ、わかっていた。
「お母さんは、わたしを、探してくれてるんだよね」
母が、まばたきをした。
「……どういう、意味」
「お父さんは、毎日、わたしを探してくれてた。手帳に、そう書いてある」リディアは、ページを、指でなぞった。「お母さんは、わたしを、隠した。隠して、守ろうとした。でも、隠したものを、お母さんは、見失わなかった。ちゃんと、覚えてた。ずっと」
母の唇が、震えた。
「だから――お母さんも、探してくれてたんだと思う。隠しながら、探してた。やり方が、お父さんと、逆だっただけで」
母は、何も言えずに、立っていた。
目のふちが、光っていた。
それでも、母は、泣かなかった。泣くかわりに、リディアの髪に、手をのせた。
いつもの、髪をなでる手だった。
でも、今朝は、その手が、すこし、ためらっていた。
なでるのではなく、ただ、そこにいることを、たしかめるように。
日が、昇りきった。
馬車に、戻る時間だった。
リディアは、立ち上がる前に、茶屋のほうを振り返った。
メルが、戸口で、木彫りの馬を、ひとりで走らせて遊んでいた。
もう、リディアのことなど、覚えていない。
リディアは、その子に、近づいた。
「メル」
名前を、呼んだ。
自分から、誰かの名を呼ぶのは、いつぶりだろう。いつも、呼ばれるのを、待っていた。届かない声で、呼ぶのが、怖かった。
メルが、顔を上げた。
「だれ?」
「通りすがり」リディアは言った。「あのね、その馬、ほんとに上手だよ。遠くまで、行けるよ」
メルは、きょとんとして、それから、にっと笑った。
「うん!」
覚えては、もらえない。
たぶん、馬車が見えなくなる前に、忘れる。
それでも、いい、と思った。
メルが忘れても、わたしが、覚えている。木彫りの馬と、いい名前、と言ってくれた声を。
忘れられても、跡が残らなくても。
覚える側に、立つことは、できる。
首飾りにも、あの力にも、できないことが、ひとつだけ、あった。
馬車が、動きだす。
水場が、茶屋が、メルが、うしろへ流れて、小さくなっていく。
リディアは、幌の隙間から、それを見ていた。
メルは、一度も、こちらを見なかった。
それでいい。
手帳を、胸に抱く。中には、四つの名前。ユアン、ネリ、メル、テオ。へたな炭の字で、四つ。
守りきれるかは、わからない。いつか、この字さえ、読めなくなるかもしれない。
でも、今は、ある。
幌の外で、母の声がした。
「リディア。昼すぎには、関所に着くわ。そこを抜ければ、王都まで、あと二日」
「うん」
王都。
答えがある場所。三つの器の、残りのふたつ。墨で消された、三つ目。わたしが、何なのか。
近づいている。
それから、リディアは、空を見た。
黒い鳥が、まだ、ついてきていた。
昼の光の中では、よけいに黒く見えた。羽音は、しない。同じ速さで、同じ方向へ、滑っている。
そして、その下の、地面を。
馬車は、もう、ずいぶん遠くまで来た。馬は、夜どおし走り、また走っている。
なのに。
うしろの、ずっとうしろの、街道の土の上に、濡れた足音が、まだ、あった。
細く。長く。急がずに。
どれだけ離れても、消えない。
リディアは、手帳を、ぎゅっと、抱いた。
わたしは、四つの名前を、覚えた。
でも、あの足音は――わたしの、においを、覚えている。
覚えられたいと願う相手には、忘れられて。
忘れられたいと願う相手には、覚えられて。
世界は、いつも、逆だった。
それでも、と、リディアは思った。
馬車は、止まらなかった。
覚えた名前を、ひとつずつ、口の中で、呼んでみる。
ユアン。ネリ。メル。テオ。
呼ぶたびに、その人が、ほんの少し、近くにいる気がした。
遠ざかっていく町と、追ってくる足音の、ちょうどあいだで。
リディアは、はじめて、自分から、名前を呼ぶ練習を、していた。