夜の馬車
家の灯りは、まだ消えていなかった。
遠くからそれを見つけたとき、リディアの足が、ようやく緩んだ。
学校から、ここまで、ほとんど走り通しだった。脇腹が痛い。口の中が、からからに渇いていた。
胸の石は、もう脈を打っていない。それでも、首のうしろの感じだけは、消えてくれなかった。
あの足音は、途中で聞こえなくなった。撒けたのだとは、思えない。あれは、足を速めない。速める必要などないと、声のほうが言っていた。
「ここまで来れば」テオが、肩で息をしながら言った。「君の母さんの家だ。たぶん、今夜は入ってこない」
「たぶん、なんだ」
「たぶん、だ」テオはうなずいた。「嘘は、つきたくない」
慰めの下手な人だ、と思う。けれど、その下手さは、いまは少しだけありがたかった。
窓は、抜け出したときのまま、指一本ぶんだけ開いている。
リディアは、そこへ手をかけた。
「テオ。……ここまででいい。あとは、ひとりで入る」
「いいよ」テオは、あっさり言った。「でも、僕は帰らない。塀の外にいる」
「どうして」
「君が、また、ひとりで何か決める顔をしてるから」
言い返せなかった。
窓から、体をすべり込ませる。
部屋は暗い。布団は、出たときのまま、人がいるように膨らませてある。
うまくいった。
そう思った、その時だった。
台所のほうで、灯りが、ゆれた。
「リディア」
声がした。
やさしい声だった。
やさしすぎて、かえって、足が動かなくなった。
台所の入口に、母が立っていた。
燭台を手にしている。灰色の髪が、ほどけて肩に落ちていた。眠っていた人の髪ではない。ずっと、起きて待っていた人の髪だった。
「どこへ、行っていたの」
怒鳴り声なら、よかった。
母の声は、低くて、静かで、だからこそ、逃げ場がなかった。
リディアは、右手を背中に回した。
握ったままの、破った紙。それを隠そうとして――やめた。
隠すのは、もう、いやだった。
手を、前に出す。
くしゃくしゃの一枚。古い文字。端に、角のある王冠の印。
母の目が、それを見つけた。
燭台の炎が、小さく傾いだ。
「……それを、どこで」
「禁書庫」
リディアは言った。声が、自分でも驚くほど、まっすぐ出た。
「学校の禁書庫に行ってきた。コレーの環のこと、書いてあった」
母は、動かない。
「読んだよ」リディアは続けた。「冥王の核は、三つに分けられた。そのひとつを封じる器を、コレーの環と呼ぶ……って」
言いながら、声が、少しかすれた。口に出すと、文字で読んだときより、ずっと重かった。
「お母さん」
息を、吸う。
「わたし、その器なんだね」
母は、すぐには答えなかった。
燭台を持つ手が、わずかに下がる。炎が、母の顔を下から照らした。
その顔を見て、リディアは、わかってしまった。
驚いていない。問い返しもしない。
知らないことを聞かれた人の顔ではなく、ずっと前から知っていた人の顔だった。
「……お母さんは、知ってたんだ」
声が、震えた。怒りではない。怒れたら、まだ楽だった。
「ずっと。わたしが、何なのか。知っていて、これを、わたしの首にかけた」
「リディア」
「守るためだって、わかってる。本当に、わかってる」
胸の石に、手を当てる。指のあいだで、石は、いつもどおり冷たい。けれど、その冷たさが、今夜は意味を持って感じられた。
「でも、守るって、こういうことなの。わたしを、いちばん見えない場所に、しまっておくこと」
母の唇が、開いて、閉じた。
ゆうべ、書庫の暗がりで考えたことが、そのまま口から出ていた。仕舞われたものの気持ちなら、自分がいちばんよく知っている、と。
「あなたに」母が、ようやく言った。「背負わせたく、なかった」
「もう、背負ってるよ」
リディアは、紙を、胸に当てた。
「ずっと前から。ただ、名前を知らなかっただけ」
器、という言葉が、まだ、舌に残っている。
飲み込んでしまえば、消えてくれるだろうか。
そう思っても、不思議と、涙は出なかった。
出るかわりに、足の裏に、力が入った。
「リディア」母が、一歩、近づこうとした。
リディアは、動かなかった。
逃げたわけではない。ただ、いつもなら母の腕の中へ入っていく体が、今夜は、動いてくれなかった。
その半歩のすきまを、母も、気づいたようだった。
伸ばしかけた手が、宙で止まる。
昨日まで、このすきまは、なかった。
母が、口を開いた。
「リディア。これには、わけが――」
その先が、途中で止まる。
目が、窓のほうへ動いた。
リディアも、気づいた。
空気が、変わった。
古い紙と、薬草の匂いに満ちていた家の中に、別の匂いが、薄く混じりはじめている。
濡れた土のような、すこし甘い、嫌な匂い。
禁書庫で嗅いだのと、同じ匂いだった。
「お母さん、これ」
「下がっていなさい」
母の声が、変わった。やさしさが、すっと引く。かわりに出てきたのは、迷宮で黒い影を討ったときの、あの声だった。
母は燭台を置き、窓辺へ寄った。
外の闇へ、右手をかざす。
指先から、白い光が、糸のように伸びて、家の周りへ流れていった。
その光が、塀の手前で、何かに触れた。
ぴた、と、止まる。
闇の中に、ふたつ、赤い点が浮かんでいた。
目だった。
濡れた足音は、もう、すぐそこまで来ていた。光の壁の、向こう側。あと、数歩のところ。
動かない。ただ、こちらを、見ている。
赤い点が、ゆっくりと、横へ動いた。光の壁に沿って、すきまを探すように。
母の指先が、わずかに震える。糸のような光が、その動きに合わせて、張りつめた。
張りつめて――きしむような、低い音がした。
結界が、押されている音だった。
「……においで、来たのね」母が、低くつぶやいた。「結界は、目をごまかせる。気配も、消せる。でも、においは、消せない」
母が、振り返った。
その顔には、リディアの知らない計算が、走っていた。
「この家にいても、もう、隠せない。あれは、においを追う。壁を張っても、いつかは越えてくる」
母は、リディアの腕を取った。
「リディア。王都へ行くわ」
王都。
その言葉に、リディアの心臓が、ひとつ、跳ねた。
「東じゃ、ないの」
「東は、隠れる土地。でも、もう隠れても無駄なら――守れる場所へ行くしかない」母は早口だった。「王都には、聖域がある。昔の、知った顔もいる。あれを追い払える力が、あそこにはある」
また、母が決めている。
ゆうべと、同じだ。わたしのいない場所で、わたしの行き先が決まっていく。
リディアは、唇を噛んだ。
でも――今度は、少しだけ、違った。
王都には、答えがある気がした。
三つの器の、残りのふたつ。墨で消された、三つ目。それを、誰が、どこに隠したのか。わたしが、何なのか。
ここで母に手を引かれて逃げるだけなら、ゆうべと同じだ。
でも、自分の足で、答えのほうへ行くのなら。
それは、もう、隠れることではない。
「……行く」
リディアは言った。
母が、少し驚いた顔をした。
「ただ、逃げるためじゃない」リディアは、母を見た。「連れて行かれるんじゃなくて、わたしが、行く。それなら、行く」
母は、すぐには答えなかった。
それから、ほんの少し、目を伏せた。
「……あなたは、本当に」
言いかけて、やめる。
お父さんに似てきた、と――たぶん、そう言いかけて、母は、のみ込んだ。
裏口を開けると、テオが、塀のそばに立っていた。
帰っていなかった。言ったとおりに。
母が、テオを見た。一瞬で、すべてを察した目だった。
「あなたが、連れ出したの」
「逆だよ」テオは、眠そうな顔のまま言った。「連れ出されたのは、僕のほう。鍵の場所を、教えただけ」
「……お家へ、お帰りなさい」母の声は、丁寧だった。丁寧すぎた。「ここから先は、あなたの背負うことじゃない」
「うん。背負わない」テオは、肩をすくめた。「ただ、ついていくだけ」
「危険なの」
「知ってる」
テオは、リディアを見た。
「君の母さんも、君と同じこと言うんだね」
その一言が、リディアの胸に、ことりと落ちた。
危ないから、関わるな。あなたのためだから、離れていなさい。
それは――ゆうべ、自分がユアンとネリに、言いかけたことだった。
巻き込みたくない。だから、何も話さずに、ひとりで来た。
遠ざけることで、守ったつもりになっていた。
母を、あんなに責めたのに。わたしも、同じだった。
ふたりの顔が浮かんだ。震える手で、握ってくれたネリ。耳まで赤くして、巻き込まれてる、と言ったユアン。
ふたりには、何も言わずに、出てきてしまった。守るつもりで。
離さないからね、と言って握ってくれた、ネリの手を思い出す。あの手を、何も言わずに、ほどいてきたのだ。
リディアは、テオの前に立った。
「テオ。ほんとに、いいの。わたし、たぶん、ろくなことにならない」
「知ってる、って、何回言わせるの」テオは、あくびをかみ殺した。「君は、いてもいなくても気づかれない。僕も、いてもいなくてもどうでもいい。似た者同士は、いっしょにいたほうが、まだ、見つかる」
変な理屈だった。
でも、いやな気持ちは、しなかった。
母が、小さく息をついた。
「……止めても、無駄なのね。ふたりとも」
「ごめんね、お母さん」
「謝らないで」母は、首を振った。「それは、あなたが、自分で決めたことだから」
初めて、母が、リディアの選んだことを、止めなかった。
止めないことが、こんなにさびしくて、こんなに、ありがたいものだとは、知らなかった。
馬車は、薬屋の裏にある、荷運び用の古いものだった。
幌がかかっている。薬草を町の外へ運ぶときに使う、目立たない一台。母は、それを、いつでも出せるようにしてあった。
やっぱり、と思う。母は、ずっと前から、逃げる支度をしていた。
ただ今度は、その支度の中に、リディアの「行く」が、入っていた。
荷台に、毛布と、水と、わずかな食料。母が手綱を取り、リディアとテオは、幌の下に身を寄せた。
幌の下は、せまかった。膝が触れそうな近さで、テオが座っている。
「こわい?」と、テオが小さく聞いた。
「うん」リディアは、正直に言った。「テオは」
「こわい」テオも言った。「でも、家にいて、ひとりで君のことを忘れていくほうが、もっといやだ」
めずらしく、まっすぐな言葉だった。
リディアは、何も返せなかった。
返すかわりに、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
町を出るのに、北門は使わなかった。あそこには、黒い杭が立っている。赤い線が、夜の中で、まだ脈を打っているはずだった。
西の、小さな通用門へ向かう。
馬の蹄が、石畳を打つ。その音が、眠った町に、やけに大きく響いた。
リディアは、幌の隙間から、町を見た。
暗い家々。消えた灯り。井戸。パン屋の釜。自分を忘れ、今朝は目をそらした、たくさんの人たち。
怒りは、もう、なかった。
ただ、この町の名が消えませんように、と思った。わたしが出ていけば、あの杭は、矛先を変えてくれるだろうか。
わからない。
わからないまま、町が、遠ざかっていく。
通用門をくぐる。外は、夜の野原だった。風が、幌を鳴らす。
その時、テオが、ふと、空を見上げた。
「リディア」
「ん」
「あれ」
幌の隙間。星のない、黒い空。
その黒さの中を、もっと黒いものが、一羽、ついてきていた。
鳥だった。
羽音は、しない。ただ、馬車と同じ速さで、同じ方向へ、ゆっくりと滑っている。
迷宮で見た、あの黒い鳥を思い出す。けれど、あれより、ずっと小さい。物見の、使い。
見られている。
町を出ても、夜の中でも、何かが、ずっとこちらを見ている。
そして、その下の地面を。
濡れた足音が、追ってきていた。
馬車のほうが、ずっと速い。どんどん遠ざかっていく。
なのに、足音は、消えなかった。
どれだけ離れても、細く、長く、ついてくる。
その消えなさが、いちばん、こわかった。
リディアは、胸元の石を、握った。
冷たい。脈は、打っていない。いまは、ただの石。
でも、この石が、わたしを薄くしていたのなら――その薄さでさえ、もう、あれには通じない。
隠れる場所は、もう、どこにもないのかもしれない。
幌の外で、母が、前を見たまま言った。
「リディア。眠れるなら、眠っておきなさい。王都までは、長いから」
「うん」
眠れるわけが、なかった。
リディアは、破った紙を、両手で、もう一度のばした。
暗くて、文字は読めない。でも、指が、その形を、覚えていた。
器、という字。環、という字。
わたしが、何なのかを書いた、一枚。
器、と書かれた紙を、器が、握っている。
手のひらに、紙の冷たさと、破り取った縁のぎざぎざが、はっきりと残っていた。
もう、誰の手にも、渡さない。
馬車は、夜の野を、王都へ向かって進んだ。
うしろからは、黒い鳥が一羽。その下を、あの足音が、どこまでも、ついてくる。
振り切れない、と思った。隠れても、薄れても。
それでも、馬車は、止まらなかった。
夜明けの方角へ、ただ、進みつづけた。