大魔法使いの娘
第4話

夜の馬車

家の灯りは、まだ消えていなかった。

 遠くからそれを見つけたとき、リディアの足が、ようやく緩んだ。

 学校から、ここまで、ほとんど走り通しだった。脇腹が痛い。口の中が、からからに渇いていた。

 胸の石は、もう脈を打っていない。それでも、首のうしろの感じだけは、消えてくれなかった。

 あの足音は、途中で聞こえなくなった。撒けたのだとは、思えない。あれは、足を速めない。速める必要などないと、声のほうが言っていた。

「ここまで来れば」テオが、肩で息をしながら言った。「君の母さんの家だ。たぶん、今夜は入ってこない」

「たぶん、なんだ」

「たぶん、だ」テオはうなずいた。「嘘は、つきたくない」

 慰めの下手な人だ、と思う。けれど、その下手さは、いまは少しだけありがたかった。

 窓は、抜け出したときのまま、指一本ぶんだけ開いている。

 リディアは、そこへ手をかけた。

「テオ。……ここまででいい。あとは、ひとりで入る」

「いいよ」テオは、あっさり言った。「でも、僕は帰らない。塀の外にいる」

「どうして」

「君が、また、ひとりで何か決める顔をしてるから」

 言い返せなかった。

 窓から、体をすべり込ませる。

 部屋は暗い。布団は、出たときのまま、人がいるように膨らませてある。

 うまくいった。

 そう思った、その時だった。

 台所のほうで、灯りが、ゆれた。

「リディア」

 声がした。

 やさしい声だった。

 やさしすぎて、かえって、足が動かなくなった。

 台所の入口に、母が立っていた。

 燭台を手にしている。灰色の髪が、ほどけて肩に落ちていた。眠っていた人の髪ではない。ずっと、起きて待っていた人の髪だった。

「どこへ、行っていたの」

 怒鳴り声なら、よかった。

 母の声は、低くて、静かで、だからこそ、逃げ場がなかった。

 リディアは、右手を背中に回した。

 握ったままの、破った紙。それを隠そうとして――やめた。

 隠すのは、もう、いやだった。

 手を、前に出す。

 くしゃくしゃの一枚。古い文字。端に、角のある王冠の印。

 母の目が、それを見つけた。

 燭台の炎が、小さく傾いだ。

「……それを、どこで」

「禁書庫」

 リディアは言った。声が、自分でも驚くほど、まっすぐ出た。

「学校の禁書庫に行ってきた。コレーの環のこと、書いてあった」

 母は、動かない。

「読んだよ」リディアは続けた。「冥王の核は、三つに分けられた。そのひとつを封じる器を、コレーの環と呼ぶ……って」

 言いながら、声が、少しかすれた。口に出すと、文字で読んだときより、ずっと重かった。

「お母さん」

 息を、吸う。

「わたし、その器なんだね」

 母は、すぐには答えなかった。

 燭台を持つ手が、わずかに下がる。炎が、母の顔を下から照らした。

 その顔を見て、リディアは、わかってしまった。

 驚いていない。問い返しもしない。

 知らないことを聞かれた人の顔ではなく、ずっと前から知っていた人の顔だった。

「……お母さんは、知ってたんだ」

 声が、震えた。怒りではない。怒れたら、まだ楽だった。

「ずっと。わたしが、何なのか。知っていて、これを、わたしの首にかけた」

「リディア」

「守るためだって、わかってる。本当に、わかってる」

 胸の石に、手を当てる。指のあいだで、石は、いつもどおり冷たい。けれど、その冷たさが、今夜は意味を持って感じられた。

「でも、守るって、こういうことなの。わたしを、いちばん見えない場所に、しまっておくこと」

 母の唇が、開いて、閉じた。

 ゆうべ、書庫の暗がりで考えたことが、そのまま口から出ていた。仕舞われたものの気持ちなら、自分がいちばんよく知っている、と。

「あなたに」母が、ようやく言った。「背負わせたく、なかった」

「もう、背負ってるよ」

 リディアは、紙を、胸に当てた。

「ずっと前から。ただ、名前を知らなかっただけ」

 器、という言葉が、まだ、舌に残っている。

 飲み込んでしまえば、消えてくれるだろうか。

 そう思っても、不思議と、涙は出なかった。

 出るかわりに、足の裏に、力が入った。

「リディア」母が、一歩、近づこうとした。

 リディアは、動かなかった。

 逃げたわけではない。ただ、いつもなら母の腕の中へ入っていく体が、今夜は、動いてくれなかった。

 その半歩のすきまを、母も、気づいたようだった。

 伸ばしかけた手が、宙で止まる。

 昨日まで、このすきまは、なかった。

 母が、口を開いた。

「リディア。これには、わけが――」

 その先が、途中で止まる。

 目が、窓のほうへ動いた。

 リディアも、気づいた。

 空気が、変わった。

 古い紙と、薬草の匂いに満ちていた家の中に、別の匂いが、薄く混じりはじめている。

 濡れた土のような、すこし甘い、嫌な匂い。

 禁書庫で嗅いだのと、同じ匂いだった。

「お母さん、これ」

「下がっていなさい」

 母の声が、変わった。やさしさが、すっと引く。かわりに出てきたのは、迷宮で黒い影を討ったときの、あの声だった。

 母は燭台を置き、窓辺へ寄った。

 外の闇へ、右手をかざす。

 指先から、白い光が、糸のように伸びて、家の周りへ流れていった。

 その光が、塀の手前で、何かに触れた。

 ぴた、と、止まる。

 闇の中に、ふたつ、赤い点が浮かんでいた。

 目だった。

 濡れた足音は、もう、すぐそこまで来ていた。光の壁の、向こう側。あと、数歩のところ。

 動かない。ただ、こちらを、見ている。

 赤い点が、ゆっくりと、横へ動いた。光の壁に沿って、すきまを探すように。

 母の指先が、わずかに震える。糸のような光が、その動きに合わせて、張りつめた。

 張りつめて――きしむような、低い音がした。

 結界が、押されている音だった。

「……においで、来たのね」母が、低くつぶやいた。「結界は、目をごまかせる。気配も、消せる。でも、においは、消せない」

 母が、振り返った。

 その顔には、リディアの知らない計算が、走っていた。

「この家にいても、もう、隠せない。あれは、においを追う。壁を張っても、いつかは越えてくる」

 母は、リディアの腕を取った。

「リディア。王都へ行くわ」

 王都。

 その言葉に、リディアの心臓が、ひとつ、跳ねた。

「東じゃ、ないの」

「東は、隠れる土地。でも、もう隠れても無駄なら――守れる場所へ行くしかない」母は早口だった。「王都には、聖域がある。昔の、知った顔もいる。あれを追い払える力が、あそこにはある」

 また、母が決めている。

 ゆうべと、同じだ。わたしのいない場所で、わたしの行き先が決まっていく。

 リディアは、唇を噛んだ。

 でも――今度は、少しだけ、違った。

 王都には、答えがある気がした。

 三つの器の、残りのふたつ。墨で消された、三つ目。それを、誰が、どこに隠したのか。わたしが、何なのか。

 ここで母に手を引かれて逃げるだけなら、ゆうべと同じだ。

 でも、自分の足で、答えのほうへ行くのなら。

 それは、もう、隠れることではない。

「……行く」

 リディアは言った。

 母が、少し驚いた顔をした。

「ただ、逃げるためじゃない」リディアは、母を見た。「連れて行かれるんじゃなくて、わたしが、行く。それなら、行く」

 母は、すぐには答えなかった。

 それから、ほんの少し、目を伏せた。

「……あなたは、本当に」

 言いかけて、やめる。

 お父さんに似てきた、と――たぶん、そう言いかけて、母は、のみ込んだ。

 裏口を開けると、テオが、塀のそばに立っていた。

 帰っていなかった。言ったとおりに。

 母が、テオを見た。一瞬で、すべてを察した目だった。

「あなたが、連れ出したの」

「逆だよ」テオは、眠そうな顔のまま言った。「連れ出されたのは、僕のほう。鍵の場所を、教えただけ」

「……お家へ、お帰りなさい」母の声は、丁寧だった。丁寧すぎた。「ここから先は、あなたの背負うことじゃない」

「うん。背負わない」テオは、肩をすくめた。「ただ、ついていくだけ」

「危険なの」

「知ってる」

 テオは、リディアを見た。

「君の母さんも、君と同じこと言うんだね」

 その一言が、リディアの胸に、ことりと落ちた。

 危ないから、関わるな。あなたのためだから、離れていなさい。

 それは――ゆうべ、自分がユアンとネリに、言いかけたことだった。

 巻き込みたくない。だから、何も話さずに、ひとりで来た。

 遠ざけることで、守ったつもりになっていた。

 母を、あんなに責めたのに。わたしも、同じだった。

 ふたりの顔が浮かんだ。震える手で、握ってくれたネリ。耳まで赤くして、巻き込まれてる、と言ったユアン。

 ふたりには、何も言わずに、出てきてしまった。守るつもりで。

 離さないからね、と言って握ってくれた、ネリの手を思い出す。あの手を、何も言わずに、ほどいてきたのだ。

 リディアは、テオの前に立った。

「テオ。ほんとに、いいの。わたし、たぶん、ろくなことにならない」

「知ってる、って、何回言わせるの」テオは、あくびをかみ殺した。「君は、いてもいなくても気づかれない。僕も、いてもいなくてもどうでもいい。似た者同士は、いっしょにいたほうが、まだ、見つかる」

 変な理屈だった。

 でも、いやな気持ちは、しなかった。

 母が、小さく息をついた。

「……止めても、無駄なのね。ふたりとも」

「ごめんね、お母さん」

「謝らないで」母は、首を振った。「それは、あなたが、自分で決めたことだから」

 初めて、母が、リディアの選んだことを、止めなかった。

 止めないことが、こんなにさびしくて、こんなに、ありがたいものだとは、知らなかった。

 馬車は、薬屋の裏にある、荷運び用の古いものだった。

 幌がかかっている。薬草を町の外へ運ぶときに使う、目立たない一台。母は、それを、いつでも出せるようにしてあった。

 やっぱり、と思う。母は、ずっと前から、逃げる支度をしていた。

 ただ今度は、その支度の中に、リディアの「行く」が、入っていた。

 荷台に、毛布と、水と、わずかな食料。母が手綱を取り、リディアとテオは、幌の下に身を寄せた。

 幌の下は、せまかった。膝が触れそうな近さで、テオが座っている。

「こわい?」と、テオが小さく聞いた。

「うん」リディアは、正直に言った。「テオは」

「こわい」テオも言った。「でも、家にいて、ひとりで君のことを忘れていくほうが、もっといやだ」

 めずらしく、まっすぐな言葉だった。

 リディアは、何も返せなかった。

 返すかわりに、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。

 町を出るのに、北門は使わなかった。あそこには、黒い杭が立っている。赤い線が、夜の中で、まだ脈を打っているはずだった。

 西の、小さな通用門へ向かう。

 馬の蹄が、石畳を打つ。その音が、眠った町に、やけに大きく響いた。

 リディアは、幌の隙間から、町を見た。

 暗い家々。消えた灯り。井戸。パン屋の釜。自分を忘れ、今朝は目をそらした、たくさんの人たち。

 怒りは、もう、なかった。

 ただ、この町の名が消えませんように、と思った。わたしが出ていけば、あの杭は、矛先を変えてくれるだろうか。

 わからない。

 わからないまま、町が、遠ざかっていく。

 通用門をくぐる。外は、夜の野原だった。風が、幌を鳴らす。

 その時、テオが、ふと、空を見上げた。

「リディア」

「ん」

「あれ」

 幌の隙間。星のない、黒い空。

 その黒さの中を、もっと黒いものが、一羽、ついてきていた。

 鳥だった。

 羽音は、しない。ただ、馬車と同じ速さで、同じ方向へ、ゆっくりと滑っている。

 迷宮で見た、あの黒い鳥を思い出す。けれど、あれより、ずっと小さい。物見の、使い。

 見られている。

 町を出ても、夜の中でも、何かが、ずっとこちらを見ている。

 そして、その下の地面を。

 濡れた足音が、追ってきていた。

 馬車のほうが、ずっと速い。どんどん遠ざかっていく。

 なのに、足音は、消えなかった。

 どれだけ離れても、細く、長く、ついてくる。

 その消えなさが、いちばん、こわかった。

 リディアは、胸元の石を、握った。

 冷たい。脈は、打っていない。いまは、ただの石。

 でも、この石が、わたしを薄くしていたのなら――その薄さでさえ、もう、あれには通じない。

 隠れる場所は、もう、どこにもないのかもしれない。

 幌の外で、母が、前を見たまま言った。

「リディア。眠れるなら、眠っておきなさい。王都までは、長いから」

「うん」

 眠れるわけが、なかった。

 リディアは、破った紙を、両手で、もう一度のばした。

 暗くて、文字は読めない。でも、指が、その形を、覚えていた。

 器、という字。環、という字。

 わたしが、何なのかを書いた、一枚。

 器、と書かれた紙を、器が、握っている。

 手のひらに、紙の冷たさと、破り取った縁のぎざぎざが、はっきりと残っていた。

 もう、誰の手にも、渡さない。

 馬車は、夜の野を、王都へ向かって進んだ。

 うしろからは、黒い鳥が一羽。その下を、あの足音が、どこまでも、ついてくる。

 振り切れない、と思った。隠れても、薄れても。

 それでも、馬車は、止まらなかった。

 夜明けの方角へ、ただ、進みつづけた。