大魔法使いの娘
第3話

忘れられた書庫

夜の学校は、知らない建物のようだった。

 昼は人の声で埋まっている廊下が、いまは月の色だけで満ちている。机も、扉も、青く沈んでいる。

 自分の学校が、こんなに広くて、こんなに静かだとは知らなかった。

 昼は、この静けさのどこかに、いつもいた。誰にも気づかれないまま。

 夜は、その静けさが、まるごと自分のものになったみたいだった。

 ここに来ると決めたのは、自分だ。

 母が眠ったあと、窓から抜けた。下で、テオが待っていた。

 心臓が、耳のうしろで鳴っていた。

 でも、母に任せて、知らないままでいるほうが、もっと怖かった。

 昨日、母に言った。わたしのことを、わたし抜きで決めないで、と。

 なら、自分のことは、自分で確かめにいくしかない。

 テオが先に立って歩いた。足音がしない。

 リディアも、足音がしない。

 二人とも、いないことに慣れている。

「こっち」

 テオが小さく言った。夜に溶けるくらいの声だった。

 角を曲がったとき、前から灯りが来た。

 夜回りの教師だ。手にした魔石の灯が、廊下の壁をなでていく。

 逃げ込む先がない。柱も、扉の影も、間に合わない。

 リディアは、その場で固まった。

 でも、テオは動かなかった。リディアの袖を、軽く引いただけだった。

 灯りが、近づく。

 教師の目が、こちらを向く。

 リディアは、まばたきを忘れた。

 そして――視線は、素通りした。

 まるで、そこに誰もいないみたいに。

 足音が遠ざかってから、ようやく肩の力が抜けた。

「いつもの、君のやつだ」テオが言った。

「やつ?」

「気配が薄い。今のは、二人ぶん効いた」

 リディアは、自分の胸元に手を当てた。

 ずっと、嫌でしかなかったもの。

 それが、初めて、誰かを守る側に回った。

 うれしいような、落ち着かないような、変な感じだった。

 禁書庫は、図書館のいちばん奥にあった。

 ふだんは鎖と錠前で閉ざされている部屋。入れるのは、教師と、聖域から来た人だけ。

 リディアは、その扉の前で足を止めた。

 見つかれば、ただでは済まない。退学。あるいは、もっと悪いこと。

 でも、足は震えていなかった。

 昨日までの自分なら、ここまで来られなかった。

「鍵は」

「司書の机の、二番目の引き出し。三年、誰も場所を変えてない」テオはもう鍵を差し込んでいた。

「なんで知ってるの」

「授業中、よく外を見てる。人のいない時間ばかり、目に入る」

 答えのような、答えでないような言葉だった。

 かちり、と低い音。

 扉が、息を吐くように開いた。

 中は、紙と埃の匂いがした。

 古い本が、天井近くまで積まれている。背表紙の文字は、半分が読めない。

 窓のない部屋なのに、空気がかすかに動いていた。

 リディアは、胸元の石に触れた。

 黒い石が、いつもより冷たい。指で包んでも、その冷たさは引かなかった。

 たぶん、気のせいだ。そう思うことにして、棚のあいだを進む。

「何を探すの」テオが入口のそばで聞いた。見張り、ということだとわかった。

「わからない」

 正直に言った。

「でも、この石のことが、ここにある気がする」

 棚は、封印術の本で埋まっていた。

 結界の組み方。封じる言葉。閉じ込めるための図形。

 どれも、何かを「外に出さないため」の技術だった。

 人間は、こんなにたくさんの閉じ込め方を持っている。

 ページをめくる指が、少しずつ冷たくなる。

 その事実が、なぜか胸に重かった。守るための知恵が、全部、隠すための知恵に見えた。

 棚の一段を、指でたどる。

 背表紙の埃は、どれも厚い。長いあいだ、誰も触れていない。

 けれど、途中で一箇所だけ、埃の薄い列があった。

 最近、誰かが抜き差しした跡。

 リディアは、その列に並ぶ本を見た。どれも、冥王戦争についての記録だった。

 胸の奥が、小さく騒いだ。

 ここに来たのは、自分が最初ではない。

 奥へ進むほど、空気が重くなる。

 古い紙の匂いに、別の匂いが混じりはじめた。

 濡れた土のような、すこし甘い、嫌な匂い。

 知らない匂いなのに、体のほうが先に怖がった。

「テオ」声をひそめる。「変な匂いがする」

「わかる」入口のテオが、低く返した。「さっきから、ね。あんまり奥に行くな」

「うん」

 うなずいて、足は、奥へ進んでいた。

 うなずいたことと、やっていることが、合っていない。

 でも、止まれなかった。ここで引き返したら、たぶん、二度と来られない。

 途中の棚に、小さな木箱があった。

 封の札が貼られている。古い子どもの字で何か書かれていたらしい跡。もう読めない。

 封印術の本にまぎれて、こんなものまで仕舞い込まれている。

 危ないからではなく、たぶん、都合が悪いから。

 人間は、本当にいろんなものを、見えない場所へ片づける。

 その箱の隣を通り過ぎながら、リディアは、なぜか、箱の側に立ちたくなった。

 仕舞われたものの気持ちなら、たぶん、自分がいちばんよく知っている。

「テオ」

「ん」

「人を守るのと、人を閉じ込めるのって、どこが違うんだろう」

 テオは少し黙ってから、言った。

「閉じ込められたほうに、聞いてみないとわからない」

 その言い方が、いつものように少しずれていて、なのに、まっすぐだった。

 リディアは、答えられなかった。

 自分が、閉じ込められたほうだと、まだ言えなかったから。

 奥の棚に、鎖で縛られた一冊があった。

 ほかの本より、ずっと古い。表紙に、角のある王冠の印。

 歴史の授業で見た、魔王の紋章。

 リディアの指が、止まった。

 迷宮で、あの黒い影が、同じ印を胸につけていた。

 鎖は錆びていた。指で触れると、ほろりと崩れた。

 崩れ方が、おかしかった。

 まだ新しい断面が、混じっていた。

 誰かが最近、この鎖に触れている。

 うなじの毛が、立った。

 それでも、めくった。

 文字は古く、半分は意味がわからない。

 けれど、いくつかの言葉だけが、はっきりと浮かんで見えた。その言葉だけが、自分を待っていたように。

 ――冥王の核は、三つに分かたれた。

 ――その一つを封じる器を、コレーの環と呼ぶ。

 リディアは、息を止めた。

 コレーの環。

 迷宮で、影が呼んだ名前。床に落ちた、母のお守りの名前。

 指が、次の行をなぞる。

 そこは、虫に食われていた。

 ――器は、その身に力を抱える。ゆえに、器を世から……

 あとは、欠けていた。

 欠けた先の言葉を、リディアは知っている気がした。

 名簿で飛ばされる。班分けで余る。誰の記憶にも残らない。

 あれは、性格でも、運でもなかったのかもしれない。

 欠けた一行が、自分の十六年を、ぜんぶ言い当てている気がした。

 知りたくなかった。

 知らなければ、まだ「見つけてもらえないだけの子」でいられた。

 でも、指は、もうページから離れなかった。

 さらにめくる。

 次の見開きには、図があった。

 三つの円が、線で結ばれている。それぞれの円のそばに、小さな文字。

 一つ目の円の文字は、読めた。――環。

 ほかの二つは、かすれて読めなかった。三つ目は、墨で塗りつぶされてさえいた。誰かが、あとから消したように。

 三つの器。

 わたしは、そのうちの一つ。

 では、あとの二つは、どこにいるのだろう。

 誰が、何を、どこに隠したのだろう。

 母が、夜に言っていた。冥王は、完全には消えなかった、と。

 消えなかったものは、こうして、いくつかに分けて、別々の場所に隠されている。

 わたしのように。

 リディアは、そっとページに手のひらを置いた。

 紙は、冷たくも、温かくもなかった。ただ、古い時間の匂いがした。

 ここに書かれているのは、歴史ではない。

 わたしが、何なのか、という話だった。

 器、という言葉が、頭の中で転がった。

 器は、中身のためにある。水を入れるための器。花を生けるための器。

 器そのものを見たい人は、いない。

 わたしは、ずっとそうだったのか。

 中にある何かのために、薄くされ、隠され、誰の目にも留まらないようにされていた。

 怒りは、わいてこなかった。

 わいてきたのは、もっと静かな問いだった。

 ――お母さんは、知っていたんだ。

 毎朝パンを持たせてくれた手。寝ぐせを直してくれた手。

 その同じ手が、この首飾りを、わたしの首にかけた。

 守るために。きっと、本当に、守るために。

 守るって、こういうことだったのか。

 誰かを見えない場所へ、しまうこと。

 ——その、しまわれていたものが、わたしだった。

 リディアは、ページの「環」という字を、指でなぞった。

 ようやく、自分の名前を知ったような気がした。

 いい名前だとは、思えなかった。

「リディア」

 テオの声が、低くなった。いつもの眠そうな声ではない。

「誰か、来る」

 リディアは顔を上げた。

 廊下の奥から、足音がする。一つではない。

 ふつうの足音でもなかった。

 床を踏む音なのに、湿っている。濡れた布を、石に押しつけるような音。

「先生じゃない」テオが言った。「あの歩き方は、人間のじゃない」

 迷宮の、黒い影を思い出す。

 なぜ、ここがわかったのか。

 考えて、すぐに答えが出た。

 鎖の、新しい断面。

 誰かが先に、この本にたどり着いていた。わたしより前に読んで、そして――待っていた。

 石が、胸元で脈を打った。迷宮のときと、同じ打ち方で。

「逃げよう」テオが手を差し出す。

 リディアは、本を見た。

 逃げれば、この本は置いていくことになる。

 また、知らない場所に、しまい込まれる。自分のことが書かれた一冊が、自分の手の届かない場所に、隠される。

 それは、嫌だった。

 ずっと、待っていた。見つけてもらうのを。誰かが、わたしを忘れないでいてくれるのを。

 待っているあいだに、わたしのことは、いつも、わたしのいない場所で決められてきた。

 もう、待たない。

 考えるより先に、手が動いていた。

 コレーの環の名が書かれたページに、指をかける。

 破る。

 その音が、静かな部屋に、やけに大きく響いた。

 自分でも、なぜそうしたのか、うまく言えない。

 ただ、自分のことが書かれた一枚を、もう誰にも隠させたくなかった。

 待つのは、終わりにする。

 差し出されるのも、隠されるのも。

「行ける?」テオが言う。

「うん」

 破った紙を、握りしめた。声は、まだ震えていた。

 でも、足は、もう止まっていなかった。

 廊下に出る。

 濡れた足音が、左から来ていた。

 テオが、右を指す。二人は、灯りを避けて走った。

 だが、角の先にも、影が伸びていた。

 濡れた音は、廊下の反対側にもいた。一つではない。

 テオがリディアの腕を掴み、開いたままの教室へ引き込む。

 二人は、机の下で息を殺した。

 足音が、戸口の前で止まる。濡れた音が、ぴたりとやんだ。

 戸の隙間から、何かが覗き込む気配。

 リディアは、胸の石を両手で包んだ。

 お願い。いまだけは、いないことにして。

 けれど石は、脈を打っていた。

 打つたびに、自分の輪郭が、すこし戻ってくる気がした。

 暴発の夜から、そうだ。石はときどき、勝手に脈を打つ。脈を打つと、わたしは濃くなる。見つかりやすくなる。

 いちばん隠れていたい夜に、いちばん見つかりそうになる。

 戸が、ゆっくりと押された。

 そのとき、テオが、廊下の反対側へ小石を投げた。

 硬い音が、暗がりに跳ねる。

 濡れた足音が、音のほうへ逸れた。

 いまだ、とテオの目が言った。

 二人は、机の下を出て、逆へ走った。

 角を曲がるたびに、リディアは祈った。

 お願い、いまだけは、薄いままでいさせて。

 昨日まで呪いだったものに、初めて、すがった。

 追ってくる気配が、ふと、迷うように散る。

 薄さが、また、二人を隠した。

 それでも、足は止めなかった。

 暗い廊下を、窓ごとに落ちる月明かりの帯を踏まないように、跳んで走った。

 光に触れたら見つかる気がした。根拠はない。でも今夜は、自分の勘を信じてみたかった。

 散った気配は、また集まろうとしていた。執念深く、ゆっくりと。

 階段を駆け下り、裏口の扉に手をかける。外の夜気が、冷たく流れ込む。

 そのとき、背中で声がした。

 濡れた、低い声。

「におう」

 リディアの足が、止まりかけた。

「大魔法使いの娘。隠れても、薄れても――においは、残る」

 振り返らなかった。

 振り返れば、捕まる。そういう種類の声だった。

 ただ、言われたことだけが、頭の芯に残った。

 においは、残る。

 薄くされても、消されかけても、わたしがいた跡は、どこかに残るのか。

 それが救いなのか、呪いなのか、いまはわからなかった。

 リディアは、テオの手を握り返し、夜の中へ走り出した。

 背後で、濡れた足音が、ゆっくりと追ってくる。

 急がなかった。急ぐ必要などない、というように。

 握った紙だけが、走るたび、胸のあたりで小さく鳴った。

 その音は、わたしはここにいる、と言っているように聞こえた。