大魔法使いの娘
第2話

三日のうちに

朝、井戸へ行くと、通りの目が動いた。

 リディア・アークライトは、よく忘れられる。

 名簿で飛ばされる。班分けで余る。配られた紙が、一枚足りない。

 誰も悪くない。だから、怒るに怒れなかった。

 でも、今朝は違う。

 見られている。
 なのに、誰も近づいてこない。

 窓の影が引っ込む。立ち話がやむ。子どもの手が、母親に引かれて遠ざかる。

 見つけてもらえないほうが、まだよかった。

 パン屋のおかみさんは、いつも「おはよう」と言ってくれる。

 今朝は、釜のほうを向いたまま、動かなかった。

 そこにいるのを、知っていて、知らないふりをする。

 忘れられるより、こたえた。

 井戸のそばで、ミーナと目が合った。

 昨日、班に誘いそびれた子。優しい子だ。

 一歩、こちらへ来かけた。口も開きかけた。

 でも、隣の誰かが、その袖をそっと引いた。

「……おはよう、リディア」

 小さな声。

「うん。おはよう」

 それだけで、ミーナは水も汲まずに行ってしまった。

 昨日は、忘れられた。
 今日は、覚えられている。

 覚えられて、それでも、離れていく。

 どっちがましなのか、わからない。

 帰り道、背中に声が刺さった。

「あの子ひとりで、町が助かるなら」

 続きは、言われなかった。
 言われなくても、わかる。

 不思議と、腹は立たなかった。

 その人の言うことは、たぶん正しい。わたしひとりが消えれば、千人が助かる。

 正しさが、こんなに冷たいなんて。

 桶の水が、ふちで揺れて、足元にこぼれた。

 北門の黒い杭は、まだ立っている。

 騎士団が縄を張った。槍で叩いても、火をつけても、びくともしない。夜を削って立てたような黒が、ただそこにある。

 根元の羊皮紙には、一行だけ。

 ――大魔法使いの娘を、差し出せ。三日のうちに。

 一日目は、もう終わっていた。

 母は朝から出ている。詰め所と、町長の家を、行ったり来たり。

 何を話しているのかは、教えてくれない。

 いつもそうだ。

 わたしのことは、わたしのいない場所で決まる。

 昼をすぎて、母が帰ってきた。

 ひとりではなかった。

 町長のハロルドは、毛織物で財を成した、太った穏やかな人だ。

 祭りのときに挨拶をする、町でいちばん偉い人。いつも笑っていて、子どもには飴をくれる。

 今日は、飴を持っていなかった。

 戸の外には、人が集まっていた。

 遠巻きに、こちらをうかがっている。石を投げる者はいない。ただ、見ている。

 見られるだけで、こんなに重い。

「エレノアさん」

 帽子を、両手で握っている。

「あなたが何者か、昨日みんな知った。白暁の魔女。世界を救ったお人だ。……だからこそ、お願いがある」

 母は、椅子をすすめなかった。立ったまま、ハロルドを見ている。

「この町には、千人が暮らしてる」ハロルドは言った。「赤ん坊も、年寄りもだ。あの杭は、町の名を消すと言った。意味はわからん。だが、本気なのはわかる」

「ハロルドさん」母の声は静かだった。「何を、言いに来たの」

 ハロルドが、リディアをちらりと見た。

 すぐに、目をそらした。

 それだけで、わかってしまった。

 この人は、わたしを見られない。

 差し出す相談に来て、わたしの顔を見られない。

「……三日後に、王都から騎士団の応援が来る」ハロルドは言った。「それまで、娘さんを、町の外の安全な場所へ移しては、どうか」

「外へ」

 母が、繰り返した。

「ここにいては、町が狙われる。娘さんが離れれば、奴らも――」

「この子を、囮の外へ出せと」

 ハロルドの顔が、赤くなる。

「そうは言ってない」

「言っているわ」

 母は、笑わなかった。

「あなたは優しいから、『差し出せ』とは言えない。だから『移せ』と言う。出したあと、この子がどうなるかは、見ないことにして」

 ハロルドは、何も返せなかった。

 帽子を握る手が、震えていた。

「……すまない」

 それだけ言って、帰っていった。

 悪い人ではない。

 それが、いちばんつらかった。

 扉が閉まると、家は静かになった。

 心臓だけが、まだ速い。

 自分のことが、自分のいる部屋で、自分抜きに話されていた。昨日、あれだけ言ったのに。

「リディア」

 母が振り返る。

 その顔は、もう薬屋の母ではない。

 棚の上から、古い革の鞄を下ろす。埃が、夕日に舞った。

 いつから、用意してあったんだろう。

「今夜、町を出るわ」

「……え」

「東に、昔の知り合いがいる。結界の強い土地よ。荷物は最小限でいい。暗くなったら出ましょう」

 すらすらと、母は言う。

 ずっと前から、決めていたみたいに。

 たぶん、決めていた。ハロルドが来るより前に。わたしに聞くより、ずっと前に。

「お母さん」

 自分でも驚くほど、低い声が出た。

「それ、いつ決めたの」

 母の手が、止まる。

「今は、そんな話を……」

「いつ決めたの」

 答えは、なかった。

 その沈黙が、答えだった。

「お母さんは、わたしを守ってくれてる」

 胸が、冷たくなっていく。昨日の暴発とは、違う冷たさ。

「それは、わかる。本当に」

「だったら」

「でも」

 うまく、言えなかった。

 町の人は、わたしを外に出したい。
 お母さんは、わたしを遠くに隠したい。

 方向は逆なのに、同じ匂いがする。

 わたしを、どこかへ片づけようとしている。
 その「どこか」が、どこなのかは、誰も言わない。

「……わたしが、どこにいたいかは、聞かないんだね」

 声が、震えた。

「リディア。あなたはまだ子どもよ」

「うん。子どもだよ」

 うなずいた。

「昨日も、仲間を二回、傷つけかけた。守られるのは、当たり前だと思う」

 それでも、と思う。

「でも、守られるのと、いないことにされるのは、違うでしょう」

 母の唇が、わずかに開いて、閉じた。

 リディアは、胸元の黒い石に触れた。

「わたし、ずっと薄かった。……たぶん、これのせい、だよね」

 母の顔が、強張る。

「それは――」

「理由は、今は聞かない」

 首を振る。

 でも、ひとつだけ、わかってしまった。

 守るために、隠す。

 それは、昨日の黒い杭が言ったことと、少しだけ、形が似ている。

 平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所。

 わたしは今、どっちにいるんだろう。

 母は、長いあいだ黙っていた。

 台所の窓から、夕方の光。薬草の束が、天井で揺れる。鍋も棚も、昨日と同じ。

 変わったのは、母とのあいだの距離だけ。

「……傷つけたかったわけじゃ、ないの」

 母の声が、かすれる。

「わかってる」

「知れば、あなたは、選ばなくていいものまで選ぶ。だから言えない」

「じゃあ、選ばせて」

 母の言葉を、さえぎった。

 どこから勇気が出たのか、自分でもわからない。

「間違ってもいい。怖くてもいい。でも、わたしのいないところで、わたしを畳まないで」

 母が、こちらを見つめる。

 その目に、何かが揺れた。怒りでも、悲しみでもない。

 たぶん、後悔。

「……あなたは」

 母が、ささやく。

「お父さんに、似てきたわね」

 胸が、つまった。

 父の手帳の、あの一行を思い出す。

 ――リディアは、探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。

 父は、わたしを見つけてくれていた。
 母は、わたしを隠していた。

 どちらも、愛だったのだと思う。

 向きが、違っただけで。

 日が暮れるころ、戸を叩く音がした。

 母が出ると、ユアンとネリが立っていた。

 ユアンは、いつもの不機嫌そうな顔で、目を合わせない。ネリは、その後ろで小さくなっている。

「……よう」ユアンが言った。「近く、通っただけだ」

 嘘だ、とすぐにわかった。

 アークライト家は、町のはずれにある。近くを通る用事なんて、ない。

「あがって」と言う前に、ユアンは戸口で足を止めた。

「いや、すぐ帰る」

 手に、布の包みがある。それを、ぶっきらぼうに突き出した。

「パンだ。ネリが、持ってけって」

「わ、私だけじゃなくて」ネリが慌てる。「ユアンも、半分」

 ネリは、リディアの顔を見て、それから、泣きそうになった。

「リディアちゃん。杭のこと、聞いた」

「うん」

「町のみんな、ひどいよ。差し出せ、なんて」

「……怒ってくれるんだ」

 言ってから、自分の声が、少し驚いているのに気づいた。

 今日いちにち、誰も怒ってくれなかった。みんな、正しい顔をして、目をそらした。

「当たり前でしょ」ネリは言った。「怖いよ。すごく、怖い。でも、ひどいものは、ひどい」

 ネリの手は、震えていた。

 それでも、リディアの手を、ぎゅっと握った。

「離さないからね」

 ユアンは、そっぽを向いたまま言った。

「昨日、俺はお前に『下がってろ』って言った」

「うん」

「あれは、無しだ」

 それだけ言って、耳まで赤い。

 不器用な人だ、と思う。

「ありがとう」リディアは言った。「でも、これ以上、巻き込みたくない」

「……ばか」ユアンが小さく言った。「もう、巻き込まれてる」

 ぶっきらぼうなのに、その声は、あたたかかった。

 今日はじめて、少しだけ笑えた。

 ふたりは、すぐに帰っていった。

 リディアは、何も話さなかった。今夜、禁書庫へ行くことも。

 言えば、ついてくる。
 そして、また誰かが傷つく。

 それは、もう、嫌だった。

 でも、包みのパンは、まだあたたかかった。

 手に残ったその熱だけは、本物だと思えた。

 今日、おおぜいの人が、わたしから目をそらした。

 でも、ひとりは、まっすぐ怒ってくれた。
 ひとりは、震える手で、握ってくれた。

 それだけで、もう少し、立っていられる。

 父の手帳の言葉を、思い出す。

 ――探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。

 探してくれる人は、ちゃんといた。

 ここに、いた。

 その夜、母は荷物をまとめなかった。

 町を出る話も、それきりになった。

 夕食のあいだ、ほとんど話さない。それでも、昼の張りつめた空気は、少しだけほどけていた。

 母は、寝る前に一度だけ、リディアの髪に触れた。

「明日、もう一度、町長と話す」母は言った。「あなたのことは、あなたのいる場所で話す。約束する」

「うん」

「でも、ひとつだけ。何があっても、その首飾りは外さないで」

 リディアは、うなずいた。

 うなずきながら、別のことを考えていた。

 母は、約束してくれた。
 でも、肝心なことは、教えてくれない。

 コレーの環。願いの核。第三の器。

 昨日、あの影が呼んだ言葉。意味は、まだわからない。

 でも、その名を知っているのは、母だけじゃないはずだ。

 学校の禁書庫。立ち入り禁止の、古い本の部屋。

 怖い。見つかれば、ただでは済まない。

 もし、自分が何かの「器」だと書いてあったら――知りたくない、とも思う。

 知らなければ、まだ、ただのリディアでいられる。

 でも。

 知らないままでいることを、もう、母には任せたくない。

 間違うなら、自分で間違いたい。

 逃げるのでも、隠れるのでもない。

 たぶん、初めて自分の足で、自分のほうへ歩く一歩だ。

 布団の中で、眠れなかった。

 胸元の石を、指で包んでみる。

 黒い石に触れると、外の音が少し遠くなる気がする。風も、母の寝息も。

 たぶん、気のせいだ。

 ずっと、そう思うことにしてきた。

 でも今夜は、その気のせいが、こわい。

 夜半、リディアは布団を抜け出した。

 母の寝息を確かめて、上着を羽織る。胸元の石が、肌に冷たい。

 窓を開けると、月が町を青く照らしていた。北門に、黒い杭の影。

 怖くない、と言えば嘘になる。

 でも、足は止まらない。

 窓の下に、人影があった。

 息を呑む。

 月明かりの中に、黒髪を後ろで結んだ少年。眠そうな顔で、こちらを見上げている。

 テオだった。

「やっぱり来た」

「……どうして、ここに」

「気配が薄いやつは、気配が薄いやつに気づく」テオは小さく笑った。「禁書庫だろ。鍵の場所、知ってる」

「なんで、わかるの」

「昨日、書庫の話のとき、一回だけ目の色が変わった」肩をすくめる。「町は君を出したがってる。母さんは君を隠したがってる。君みたいなのは、こういうとき、自分で答えを探しに行く」

 まるで、わたしよりわたしを知っているみたいだ。

「君、変だね」テオが言った。

「初対面で、それ二回目だよ」

「二回目? じゃあ、本当に変なんだ」

 悪口には、聞こえなかった。

「危ないよ」リディアは言った。「わたしに関わると、よくないことになる」

「知ってる」

「それでも?」

「眠い。早く決めて」テオはあくびをした。「来るの、来ないの」

 しばらく、言葉が出なかった。

 昨日まで、誰にも見つけてもらえなかった。

 今、ひとりだけ、暗闇の中で、見つけてくれた人がいる。

 差し出すためでも、隠すためでもなく。

 ただ、いっしょに行くために。

 リディアは、窓の縁に足をかけた。

「うん」

 声が、少しだけ笑っていた。

「行こう」

 二日目の夜が、更けていく。

 北門の黒い杭の上で、赤い線が、何かを待つように、ゆっくりと脈を打っていた。