大魔法使いの娘
第1話

コレーの環

リディア・アークライトは、よく忘れられる。

 それは、いじめではなかった。

 誰かに机を蹴られるわけではない。
 教科書を隠されるわけでもない。
 廊下ですれ違った生徒に、あからさまに笑われることもない。

 ただ、忘れられる。

「今日は四人一組で、地下迷宮型の実技訓練を行う」

 魔法実技の教師、レグルス先生がそう言った瞬間、教室の空気が少しだけ浮いた。

 生徒たちは、椅子を引いて立ち上がる。
 名前を呼ぶ声。
 誘い合う声。
 断られて笑う声。
 誰かの机に集まる足音。

 そういうものが、教室の中でぱらぱらと弾けた。

 リディアは、少し遅れて立った。

 別に、誘われるのを期待していたわけではない。

 期待していない、と思うことにしていた。

「フィオナ、こっち入って!」

「カイル、剣使えるし前衛でしょ」

「ネリ、お願い。回復役ほしい」

 名前が次々に飛ぶ。

 リディアは、自分の名前がその中にないことを確認してから、胸元に手を置いた。

 服の下に、黒い石の首飾りがある。

 小さいころ、母がくれたお守りだった。

 母は、これを肌身離さずつけていなさいと言った。
 なぜ、と聞いたこともある。
 母はそのたびに、少しだけ困った顔で笑った。

「あなたを守ってくれるから」

 それだけだった。

 黒い石は、いつも少し冷たい。

 指で包んでも、体温が移らない。

 まるで、こちらに慣れる気がないみたいに。

「あれ?」

 隣の席のミーナが振り向いた。

「リディア、まだ班決まってないの?」

「うん」

「ごめん。さっき声かけようと思ってたんだけど、もう埋まっちゃった」

「大丈夫」

 リディアは笑った。

 ミーナは優しい子だ。
 だから、たぶん本当に声をかけようと思っていたのだろう。

 ただ、その途中で忘れただけだ。

 リディアには、そういうことがよくある。

 授業で配られる紙が一枚足りないとき、たいてい彼女の机には何もない。
 掃除当番の表から名前が抜けていて、先生があとから慌てて書き足す。
 昼休みに友だちと約束しても、相手は別の子と食堂へ行ってしまう。

 誰も悪くない。

 それが一番、困る。

「リディア・アークライト」

 先生に呼ばれた。

「はい」

「君は、余った者同士で組みなさい」

 先生の杖が、教室の後ろを指した。

 そこには三人の生徒がいた。

 ひとりは、銀色の短い髪をした少年。ユアン。
 剣術科から魔法科へ移ってきた変わり者で、いつも少し不機嫌そうな顔をしている。

 ひとりは、小柄な少女。ネリ。
 回復魔法は得意なのに、実技場に入るとすぐ顔色が悪くなる。

 もうひとりは、黒髪を後ろで結んだ少年。テオ。
 授業中によく寝ている。けれど、試験では不思議と落ちない。

 余りものの班。

 誰かが小さく笑った。

 リディアは、それに気づかないふりをして、三人のほうへ歩いた。

「よろしく」

 ユアンがリディアをちらりと見た。

「いたのか」

「うん。いたよ」

「悪い。気づかなかった」

「大丈夫。よくあるから」

 ネリが慌てて頭を下げる。

「ご、ごめんなさい。私も、先生に言われるまで……」

「本当に大丈夫」

 また笑った。

 笑うのは、便利だった。
 相手が安心する。
 自分も、傷ついていないふりができる。

 テオだけが、黙ってリディアを見ていた。

「君、足音が薄いね」

「足音?」

「あと、気配も。わざと?」

「そんな器用なこと、できないよ」

「じゃあ、変だ」

「初対面で言うこと?」

「二回くらい同じ授業を受けてる」

「あ、そうなんだ」

「うん。君もたぶん、僕のこと覚えてないでしょ」

 リディアは少しだけ困った。

 たしかに、テオのことは名前くらいしか知らない。

 テオは眠そうな顔のまま言った。

「お互いさま」

 その言い方が少しだけおかしくて、リディアは笑いそうになった。

 けれど、その前に実技場の鐘が鳴った。

 地下迷宮型の訓練場は、学校の古い地下に作られている。

 壁は灰色の石。
 天井は低く、魔石の灯りが青白く揺れている。
 奥にある赤い旗を取って、全員で戻れば合格。

 出てくる魔物は、本物ではない。

 魔石で作られた影の魔物。
 爪で引っかかれれば痛いし、剣で打たれれば倒れる。
 けれど命を落とすことはない。

 レグルス先生は、入口の前で言った。

「今日の課題は、互いを見失わないことだ。実戦では、強い者が一人いるだけでは足りない。全員で戻れ。ひとりでも欠ければ失格とする」

 互いを見失わないこと。

 その言葉が、リディアの胸に少し刺さった。

 見失われるのは、得意だった。

 扉が閉まる。

 中は冷えていた。

 ユアンがすぐに剣を抜き、前へ出る。

「俺が先頭に立つ。お前たちは後ろにいろ」

 ネリが小さくうなずいた。
 テオは壁を見ている。
 リディアは、通路の右側に埋め込まれた魔石の光が、少しだけ揺れていることに気づいた。

 右の奥に、広い空間がある。
 たぶん、そこから何か来る。

 言ったほうがいい。

 そう思った。

「あの」

 声が小さくなった。

 ユアンはもう歩き出している。

「ユアン、右が」

「何だ?」

「右から、何か来るかも」

「見えるのか」

「見えないけど、光が揺れてて、たぶん風が」

「たぶんで止めるな。進むぞ」

 リディアは口を閉じた。

 自分でも、確信がなかった。

 もしかしたら気のせいかもしれない。
 自分が強くないから、怖がっているだけかもしれない。

 次の瞬間、右の壁の影がふくらんだ。

 黒い狼が飛び出す。

「ユアン!」

 リディアは杖を構えた。

 火の魔法を出そうとする。

 遅い。

 魔力を集める。
 形にする。
 狙いを決める。

 他の生徒なら、まばたきの間にできる。
 リディアには時間がかかる。

 ユアンは狼の爪を剣で受け止めた。金属の音が通路に響く。
 ネリが悲鳴をこらえる。
 テオが壁際へ逃げるように動く。

 リディアの火球が、ようやく手元に生まれた。

 でも、ユアンと狼の距離が近すぎる。

 今撃てば、味方に当たる。

「どいて!」

 リディアは叫んだ。

 ユアンが振り返る。

 その一瞬で、狼の体が低く沈んだ。

 爪がユアンの腕をかすめる。
 血が飛んだ。

 リディアは焦った。

 今、撃たなきゃ。

 そう思って、火球を放った。

 遅れた魔法は、狙いも乱れた。

 火球は狼ではなく、ユアンの足元に落ちる。

「うわっ!」

 小さな爆発。

 ユアンが体勢を崩した。
 狼がその隙に飛びかかる。

 テオが短剣を投げた。狼の首元の魔石に当たる。
 黒い狼は煙になって消えた。

 通路に、焦げた匂いが残った。

 リディアは杖を握ったまま、動けなかった。

「ごめん」

 声がかすれた。

「ごめん、私」

 ユアンは腕の傷を押さえながら、顔をしかめた。

「次から、撃つなら言え」

「言った」

「聞こえなかった」

「……うん」

 ネリが慌ててユアンの腕に回復魔法をかける。

「浅い傷です。でも、痛みは残るかも」

「問題ない」

 ユアンはそう言ったが、明らかに怒っていた。

 いや、怒っているのは当然だ。

 リディアは、助けようとして失敗した。

 自分は、やっぱり足手まといだ。

 胸元の首飾りが冷たくなる。

 まるで、その通りだと言われているみたいだった。

 その後、リディアはあまり話さなくなった。

 危ないと思う場所は何度かあった。
 でも、口に出す前に考えてしまう。

 また間違っていたら。
 また声が届かなかったら。
 また誰かを傷つけたら。

 ユアンは先頭を進む。
 ネリはその後ろ。
 テオは壁や床を見ながら、時々立ち止まる。

 リディアは一番後ろを歩いた。

 そのほうが、邪魔にならない気がした。

 奥の部屋に着いた。

 石台の上に、赤い旗が立っている。

 部屋は広い。
 天井も高い。
 床には古い傷が、いくつも円を描くようについていた。

 リディアは足を止めた。

 何かある。

 そう思った。

 でも言えなかった。

 ユアンが旗へ向かって進む。

 言わなきゃ。

 リディアは口を開く。

「あの、床が」

「またか?」

 ユアンの声に、リディアはびくっとした。

 怒っているわけではない。
 たぶん、さっきの失敗のあとだから警戒しているだけだ。

 でも、その一言でリディアの声は小さくなった。

「……何でもない」

 ユアンは一瞬こちらを見たが、そのまま旗に手を伸ばした。

 旗が石台から離れる。

 その瞬間、天井から黒い影が落ちてきた。

 人の形をした影の騎士。

 大きな剣を持っている。

 ユアンが剣で受ける。
 重い音が響く。
 さっきの狼より、ずっと強い。

「くそっ!」

 ユアンが押し込まれる。

 ネリが震えながら回復の準備をする。
 テオが背後に回ろうとするが、騎士の影が広がり、道をふさぐ。

 リディアは杖を構えた。

 今度こそ助けたい。

 火ではだめ。
 味方に当たる。

 足元を止める魔法なら。

 そう考えて、光の糸を作ろうとする。

 でも遅い。

 遅すぎる。

 ユアンが弾き飛ばされ、床を転がった。
 ネリが悲鳴を上げる。

 影の騎士が剣を振り上げた。

 狙いはネリだった。

「ネリ!」

 リディアは走った。

 魔法では間に合わない。
 だから体でかばうしかない。

 ネリの前に飛び出す。

 影の騎士の剣が振り下ろされた。

 死ぬことはない。
 訓練場の魔物だから。

 そう頭ではわかっているのに、体は本気で恐怖した。

 そのときだった。

 リディアの胸元に、冷たい痛みが走った。

 影の剣が、首飾りの鎖をかすめた。

 細い銀の鎖が切れる。

 黒い石が、宙に浮いた。

 時間が、急に遅くなった。

 リディアの目の前で、母のお守りが落ちていく。

 石が床に触れた。

 かつん、と小さな音がした。

 その瞬間。

 世界が、息を吸った。

 リディアの体の奥から、何かがあふれた。

 熱ではない。
 光でもない。
 もっと大きなもの。

 ずっと深い井戸の底に押し込められていた水が、地面を割って噴き出すように。

 音が消えた。

 ユアンの叫びも。
 ネリの息も。
 テオの足音も。
 影の騎士の剣が風を切る音も。

 全部、遠くなった。

 かわりに、別のものが見えた。

 壁の中を流れる魔力。
 床の古い魔法陣の傷。
 魔石が灯りを出す仕組み。
 影の騎士を動かしている小さな核。

 全部、見えた。

 見えてしまった。

 リディアは、ただ手を伸ばした。

 止まって。

 そう思っただけだった。

 影の騎士の体が、白い光に包まれた。

 次の瞬間、騎士は音もなく消えた。

 爆発ではない。
 燃えたのでもない。
 最初からなかったみたいに、消えた。

 部屋の壁に、巨大な魔法陣が走る。

 迷宮全体が震えた。

 天井から石の粉が降る。
 魔石の灯りが、一斉に白くなる。

 ネリがリディアの名前を呼んだ気がした。

 でも、その声は水の中から聞こえるようだった。

 リディアは自分の手を見た。

 震えている。

 怖い。

 何が起きているのかわからない。

 自分がやったのかも、わからない。

 ただ、体が軽かった。
 そして、自分が大きくなりすぎたような感じがした。

 今まで世界に薄く溶けていた自分が、急に世界の真ん中へ引きずり出されたようだった。

 そのとき、迷宮の奥で黒い羽音がした。

 黒い鳥が、一羽、石台の上に降りた。

 いつの間にいたのか、誰もわからなかった。

 鳥は赤い目で、リディアを見た。

 今度は、まっすぐに。

 見られている。

 逃げ場がないほど、まっすぐ。

 鳥のくちばしが開いた。

「いた」

 人の声だった。

 乾いた木を折るような声。

「そこにいたのか」

 黒い鳥の体が、霧のようにふくらんだ。

 羽がほどける。
 影が伸びる。
 人の形になる。

 黒い外套。
 白い手。
 顔のない影。

 胸元には、角のある王冠の紋章があった。

 歴史の授業で見たことがある。
 魔王の紋章。

「コレーの環の中に、隠れていたのか」

 影が笑った。

 リディアは動けなかった。

 コレーの環。

 知らない言葉なのに、床に落ちた黒い石のことだとわかった。

 影の視線が、リディアをなめるように見る。

「大魔法使いの血。願いの核。第三の器」

 言葉の意味はわからない。

 でも、自分のことを言われている。

 それだけはわかった。

 ユアンが剣を拾い、立ち上がろうとする。

「リディアから離れろ」

 影が指を動かした。

 ユアンの体が壁に叩きつけられる。

「ユアン!」

 リディアは叫んだ。

 その声と同時に、迷宮の壁にまた魔法陣が広がった。

 リディアは何も唱えていない。
 何もしていない。

 ただ、ユアンを助けたいと思っただけだった。

 白い光が影へ向かって走る。

 影は後ろへ跳んだ。

「制御していないのに、この力」

 その声に、喜びが混じっていた。

「冥王は、正しかった」

 影が両手を広げる。

「器はここにあった」

 リディアは首を横に振った。

「違う」

 何が違うのか、自分でもわからなかった。

 でも、違うと言いたかった。

 私は器じゃない。
 私は、何かを入れるためのものじゃない。

 そう言いたかった。

 けれど声にならなかった。

 黒い影が近づく。

 リディアの中の力が、また勝手に膨らむ。

 だめ。

 そう思った。

 これ以上出したら、何かが壊れる。

 迷宮かもしれない。
 仲間かもしれない。
 自分かもしれない。

 止まって。

 止まって。

 でも、止まらない。

 白い魔法陣が床を埋める。
 壁を登る。
 天井まで広がる。

 ネリが泣きそうな声で言った。

「リディアちゃん、怖いよ」

 その声で、リディアははっとした。

 ネリが怖がっている。

 自分の力を。

 リディアは、初めて自分の力を怖いと思った。

 その瞬間、迷宮の天井が割れた。

 白い光が、外から降ってきた。

 リディアの魔力とは違う。

 もっと静かで、もっと強い。

 空そのものが、誰かの命令に従ったような光だった。

 黒い影が後ずさる。

「この魔力……」

 壁が崩れた。

 粉塵の向こうに、ひとりの女性が立っていた。

 灰色の髪を後ろで束ねた、細い人。
 古い外套。
 薬草の匂いがする手。

 朝、リディアにパンを持たせてくれた人。
 寝ぐせを直しながら、忘れ物はないかと聞いてくれた人。

 母だった。

「リディア」

 母は、迷わずリディアを見た。

 いつものように。
 世界中がリディアを見失っても、母だけは最初からそこにいると知っていたみたいに。

 けれど次の瞬間、母の目が床に落ちた黒い石を見つけた。

 母の顔から、血の気が引いた。

「誰が外したの」

 声が震えていた。

 リディアは答えようとした。

 でも喉が動かなかった。

 母は、すぐにリディアの前へ立った。

 黒い影が笑う。

「久しいな、白暁の魔女」

 ユアンが壁にもたれたまま、目を見開く。

「白暁の……」

 影は続けた。

「勇者一行の大魔法使い、エレノア・アークライト」

 リディアは母の背中を見ていた。

 知らない背中だった。

 いつも台所でスープをかき混ぜていた母の背中。
 小さな薬屋で、乾いた薬草を瓶に詰めていた母の背中。

 それが今は、迷宮の闇を押し返している。

 母は杖を持っていなかった。

 ただ右手を上げた。

 足元に巨大な魔法陣が咲いた。

 リディアの暴発した光が、嵐なら。
 母の光は、静かな湖だった。

 深く、広く、底が見えない。

 黒い影が言った。

「エレノア。お前たちは、まだ平和を信じているのか」

 母は答えない。

 影は笑った。

「しかしお前たちは平和を作ったのではない」

 迷宮の空気が冷える。

「平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所を分けただけだ」

 その言葉が、石壁に染みるように響いた。

 リディアには意味がわからなかった。

 でも母の背中が、ほんの少しだけ揺れた。

 その言葉が、母を刺したのだとわかった。

「黙りなさい」

 母の声は静かだった。

 魔法陣が回る。

 白い光が、黒い影を包む。

 悲鳴が上がった。
 人の声なのか、鳥の声なのかわからない。

 黒い外套がほどける。
 赤い目が消える。
 最後に、黒い羽が一枚だけ残った。

 母は最後まで目をそらさなかった。

 やがて、迷宮に静けさが戻った。

 母はすぐに黒い石を拾った。

 切れた鎖を、指先でなぞる。

 その手は震えていた。

「お母さん」

 リディアはようやく声を出した。

「今の、何?」

 母は答えなかった。

 黒い石をリディアの胸元へ戻す。
 切れた鎖を、魔法でつなぐ。
 首飾りが、再びリディアの肌に触れた。

 その瞬間。

 世界が、急に遠くなった。

 さっきまで大きすぎるほど見えていた魔力の流れが、壁の向こうへ消える。
 音が鈍くなる。
 体が重くなる。

 そして、もっと嫌な感覚がした。

 自分の輪郭が、少し削れたような感覚。

 ユアンがゆっくり立ち上がった。

「おい、あの……」

 彼はリディアを見た。

 でも名前が出てこない。

「お前、名前……」

 リディアの胸が冷たくなった。

 ネリも、口元を押さえている。

「私も、今、一瞬……」

 テオだけが、顔色を変えずにリディアを見ていた。

「首飾りが戻ったせいじゃない」

 リディアはテオを見る。

 テオは言った。

「外れた反動だ。たぶん」

 ユアンが青ざめる。

「悪い。今、なんで忘れた」

 リディアは笑おうとした。

 いつものように。

 大丈夫と言おうとした。

 でも、うまく笑えなかった。

「リディアだよ」

 声が震えた。

「私の名前は、リディア」

 ユアンは歯を食いしばった。

「悪い」

「いいよ」

 よくない。

 本当は、よくなかった。

 でも、そう言うしかなかった。

 母はリディアを見ていた。

 その目には、後悔があった。

 それから母は、リディアを抱きしめた。

 強く。
 苦しいくらいに。

「ごめんね」

 母が言った。

「何が?」

「ごめんね、リディア」

「お母さん、これ、何なの」

 母は答えなかった。

 代わりに、リディアの首飾りをもう一度強く握った。

「もう外してはだめ」

「でも、勝手に切れたの」

「それでも」

 母の声は、祈りに近かった。

「何があっても、外してはだめ」

 リディアは、母の背中に手を回せなかった。

 母が何かを知っている。
 自分に何かをつけていた。
 自分の中にある何かを、ずっと隠していた。

 そう思うと、母の腕が温かいのに、少し怖かった。

 床に落ちていた黒い羽が、灰になって崩れた。

 その灰の中から、小さな声が聞こえた。

「一日目」

 リディアの背筋が冷たくなった。

 その日の夕方、学校は騒ぎになった。

 実技場は封鎖された。
 騎士団が呼ばれた。
 生徒たちは全員、家へ帰された。

 先生たちは、母に頭を下げていた。
 騎士団の兵士たちは、母を見る目を変えていた。

 薬屋のエレノアではなく、
 白暁の魔女エレノア・アークライトとして。

 世界を救った勇者一行の大魔法使いとして。

 リディアは、校門の近くで待っていた。

 ユアン、ネリ、テオも近くにいた。

 誰もすぐには話さなかった。

 最初に口を開いたのは、ユアンだった。

「お前の母さん、何者なんだ」

「私にも、わからない」

 言ってから、胸が痛くなった。

 母のことなら、知っていると思っていた。

 好きな茶葉。
 苦手な冬の朝。
 薬草を刻むときの癖。
 寝る前に窓の鍵を二度確かめること。

 でも本当は、何も知らなかったのかもしれない。

 ネリが小さな声で言った。

「リディアちゃん、さっきの力……」

「わからない」

 リディアは答えた。

「私にも、わからない」

 テオが言った。

「でも、首飾りが外れた瞬間に起きた」

「うん」

「そして戻したあと、僕たちは君の名前を忘れかけた」

 言葉にされると、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 ユアンがすぐ言った。

「忘れない」

 リディアは彼を見る。

 ユアンは、少し気まずそうに目をそらした。

「もう忘れない。さっきは、何か変だっただけだ」

「うん」

 リディアはうなずいた。

 信じたかった。

 でも、怖かった。

 もしまた首飾りが外れたら。
 もしまた戻したら。
 そのたびに、誰かが自分の名前を忘れるのだとしたら。

 いつか本当に、誰もリディアを思い出せなくなるのではないか。

 そのとき、校門の外から母が戻ってきた。

 夕日を背にしていたので、顔が影になっていた。

「リディア、帰りましょう」

 いつもの声だった。

 夕飯の支度を気にしているような、普通の声。

 でも、リディアはもう知ってしまった。

 母の手は、空を割る。
 母の名前は、魔王の使いに知られている。
 母は世界を救った人だった。

 そして母は、リディアに何かを隠している。

「お母さん」

 リディアは言った。

「私、聞きたいことがある」

 母は少しだけ目を伏せた。

 それから、静かにうなずいた。

「帰ったら話すわ」

 リディアは、その言葉を信じたかった。

 けれどその夜、母はすべてを話さなかった。

 話したのは、ほんの少しだけだった。

 昔、冥王と呼ばれる存在がいたこと。
 人間たちは彼を魔王と呼んだこと。
 母は勇者一行の一人として、その魔王を倒したこと。
 魔王は完全には消えなかったこと。

 そして、リディアには普通に生きてほしかったこと。

「普通って、何?」

 リディアが聞くと、母は答えに詰まった。

 台所の灯りが揺れている。

 母はいつもの薬草茶をいれた。
 いつもなら、その匂いで少し安心できる。
 でも今夜は、湯気まで遠く感じた。

「学校に行って」

 母は言った。

「友だちと笑って。朝起きて、夜眠る。誰にも奪われない日々を送ること」

「でも、私、学校で見つけてもらえないよ」

 母の手が止まった。

 リディアは、初めてそのことを母に言った。

「先生に名前を飛ばされる。友だちに忘れられる。班分けで余る。今日も、みんな一瞬、私の名前を忘れた」

 胸元の首飾りに触れる。

「これのせい?」

 母は答えなかった。

 その沈黙で、リディアは少しわかってしまった。

「お母さん」

 声が震える。

「これ、何なの?」

 母は目を伏せた。

「あなたを守るためのもの」

「それは聞いた」

「今は、それ以上言えない」

「どうして?」

「知れば、あなたは選ばなくていいものまで選ぶことになる」

 リディアは、母の顔を見た。

「私のことなのに?」

 母の唇が震えた。

 でも、答えはなかった。

「外してはだめ」

 母は言った。

「どんなことがあっても」

「外れたら?」

「私が戻す」

「戻したら、また誰かが私を忘れる?」

 母は答えなかった。

 リディアはもう、それ以上聞けなかった。

 その夜、リディアはなかなか眠れなかった。

 窓の外では、風が木の葉を揺らしている。
 家の中は静かだった。
 母が台所で何かを片づける音だけが、ときどき聞こえた。

 リディアは机の引き出しを開けた。

 そこには、古い手帳がある。

 父ノアの手帳。

 父は、リディアが小さいころに亡くなった。
 町の薬師だった。
 強い魔法使いではなかった。
 剣も使えなかった。

 でも、リディアのことをよく見てくれた人だった。

 手帳を開く。

 薬草の名前。
 天気の読み方。
 眠れない子に飲ませる蜂蜜湯の作り方。
 母が疲れている日に作るスープの分量。

 そして、リディアのこと。

リディアは、寂しいとき右の袖を握る。
言わないだけで、だいたい気づいてほしがっている。

 リディアは自分の右手を見た。

 袖を握っていた。

 次のページには、こう書かれていた。

リディアは、探さなくても見つかる子ではない。
だから、毎日ちゃんと探すこと。

 文字がにじんだ。

 父は知っていたのだろうか。

 首飾りのことを。
 自分が薄くなっていることを。

 それとも、何も知らなくても、ただ見つけてくれていただけなのだろうか。

 リディアは手帳を胸に抱いた。

 そのとき、遠くの森で黒い鳥が鳴いた。

 窓の外には何もいない。

 でも、見られている気がした。

 翌朝、町の北門に黒い杭が立っていた。

 誰が立てたのか、誰も見ていない。

 杭は、木でも鉄でも石でもなかった。
 夜そのものを削って作ったような黒だった。

 根元には、羊皮紙が一枚、短剣で留められている。

 町の人々が遠巻きに見ていた。
 騎士団の兵士たちが槍を構えている。
 母は、黒い杭の前に立っていた。

 リディアは母の後ろに立つ。

 視線が集まる。

 昨日まで、誰にも見つけられなかった。
 今は、町中がリディアを見ようとしている。

 うれしくはなかった。

 怖かった。

 羊皮紙には、たった一行だけ書かれていた。

大魔法使いの娘を、差し出せ。

 リディアの胸元で、黒い石が脈打った。

 母が息を呑む。

 黒い杭の表面に、赤い線が走った。

 文字のように。
 血管のように。

 そして、声がした。

「三日」

 町の人々が凍りつく。

「三日ののち、娘を差し出せ。さもなくば、この町の名を消す」

 名を消す。

 その言葉を聞いた瞬間、リディアは自分の名前が遠くなるような気がした。

 母が右手を上げる。

 白い光が集まる。

 けれど、黒い杭からもう一つの声がした。

 昨日の影よりも深い声。
 もっと古く、もっと冷たい声。

「エレノア・アークライト」

 母の顔色が変わる。

「お前たちは、まだ平和を信じているのか」

 黒い霧が広がる。

「しかしお前たちは平和を作ったのではない」

 霧の中で、赤い目が開いた。

「平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所を分けただけだ」

 リディアは母を見た。

 母は何も言わない。

 その沈黙が、リディアには怖かった。

 母はこの言葉を知っている。

 母は、この問いから逃げてきた。

 そしてたぶん。

 母がリディアにしたことも、同じ形をしている。

 守るために、隠す。
 平和のために、見えない場所へ押し込める。

 黒い石が、胸元で強く脈打つ。

 リディアはそれを両手で握った。

 自分が何なのか、まだわからない。
 母が何を隠しているのかも、わからない。
 昨日の力が何だったのかも、わからない。

 でも、ひとつだけわかった。

 もう、知らないままではいられない。

 町の人々の視線が突き刺さる。
 母の背中が遠い。
 黒い杭の声が、まだ耳に残っている。

 リディアは小さく息を吸った。

 声は震えていた。

 それでも、言った。

「お母さん」

 母が振り返る。

「私のことを、私抜きで決めないで」

 北門に風が吹いた。

 黒い杭の赤い線が、静かに笑うように光った。